甲斐 武田信義館(韮崎市)

築庭にたつ「武田信義の碑」と「説明板」

甲斐武田氏発祥の地

所在地

山梨県韮崎市神山町武田

形状

現状・遺構等

現状:宅地、田園
遺構等:土塁?、石碑、説明板

満足度

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訪城日

2009/05/07

歴史等

新羅三郎義光の曾孫・源清光の次男・信義は、元服して武田太郎信義と名乗り、この武田庄に居館を構え、さらには背後の山に詰の城・ 白山城を築き勢力を伸ばした。
やがて、父清光の跡を継いで谷戸城主となった長兄・逸見光長をしのぎ、甲斐源氏の惣領的な地位にたった。
治承4年(1180)、源頼朝の挙兵に合わせ、信義も出兵し、遠江・駿河の大軍を破り、さらには富士川の戦いで平家の大軍を破った。
戦勝の後、頼朝は論功行賞として、信義を駿河守護に、叔父の安田義定を遠江守に任命した。信義率いる甲斐騎馬軍団は、その後も、 義経の西上作戦に参加し、木曽義仲追討、一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦で大きな軍功をたてた。
平家滅亡のあと、頼朝は駿遠一帯に勢力を拡大した甲斐武田の一門を恐れるようになり、日増しに圧迫を加えてきた。
元暦元年(1184)、信義の長男・一条忠頼を鎌倉に招いて謀殺、その弟・板垣兼信、武田有義も次々に消された。そして、 駿河守を解かれた信義は、失意のうちに文治2年(1186)3月9日、59歳で没した。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

武田八幡宮の東約500mほどに立つ立派な「武田八幡宮二の鳥居」の横の「武田の里文化史跡案内図」を見て行った。
田圃の一画に築庭があり、その中に木碑と説明板が設置されている。
説明板によると、「館跡は、武田地区の東端を占め、約250m平方の地で、今は民家・耕地が入り混じっているが、 当時を偲ぶ土塁の一部が現存する。」とあったが、分からなかった。
(2009/06/07訪れて)

ギャラリー

㊧武田八幡宮二の鳥居、㊨武田の里文化史跡案内図(案内板より)
㊨の案内図は~クリックにて拡大画面に~
武田八幡宮の東約500mほどに立つ立派な「武田八幡宮二の鳥居」の横に駐車場があり、そこに 「武田の里案内図」が設置されている。ここに駐車して、武田地区を散策するのも良いだろう。
 

【願成寺(がんじょうじ)】
願成寺は、武田信義がこの地に入り祈願寺とし、以来武田氏との関係を深めた。天正10年(1582) 織田信長勢が信濃、甲斐に侵攻してきた際のの兵火により伽藍は焼失したが、幸いにも仏像は焼失を免れた。その後、 寺は復興し今日に至っている。
本堂(写真奥の赤い屋根)に向かって、左奥に武田信義の墓(五輪塔、鎌倉時代初期の塔形にほぼ完全に近い姿で残されている。)があり、 その墓の左に武田家累代御霊殿「甲斐源氏の祖・源義光(新羅三郎義光)から始まり、甲斐武田氏祖・武田信義、武田勝頼の子武田信勝まで」 がある。また、山門横に武田家家臣招魂の碑がたっている。
㊧山門、㊨武田家累代御霊殿
 

㊧武田信義の墓、㊨武田家家臣招魂の碑
 

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