武蔵 葛西城(葛飾区)

御殿山公園に立つ「青砥藤綱城跡」と彫られた石碑

環七建設で出現、再び埋め戻された後北条氏の支城

所在地

東京都葛飾区青戸7丁目、御殿山公園・葛西城址公園
水戸街道と環七の交差点を南へ約150m、環七の両側に両公園がある。

形状

平城

現状・遺構等

現状:環状7号線、御殿山公園、葛西城址公園、宅地他
遺構等:石碑、説明碑、説明板

満足度

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訪城日

2009/06/02

歴史等

中世において、葛西地域は秩父平氏の流れを汲む葛西氏によって治められていた。
葛西城の築城年代は定かではないが、中世に関東管領山内上杉氏の目代であった大石氏がこの地にあったと考えられることや出土遺物から、 15世紀中頃と推定される。
15世紀末、後北条氏が関東に進出してきて、天文7年(1538)北条氏綱により落城し、 下総に勢力を張る足利義明に対する構えとして整備され、後北条氏の一支城となった。
その後、葛西城は16世紀末まで存続するが、天正18年(1590)小田原の役での後北条氏の滅亡と同じくして葛西城も落城した。
徳川家康による江戸開府後、葛西城跡には青戸御殿が建てられ、秀忠・家光の3代にわたって鷹狩の際の休憩・宿舎として利用されたが、 明暦3年(1657)頃取り壊された。
『現地説明碑他参照』

現況・登城記・感想等

車が次々と通る環七の光景を見て、誰もここに城があったとは思わないだろう。
葛西城址は、環七やその両側の御殿山公園と葛西城址公園等の下に埋まり、御殿山公園に石碑や説明板が空しく立っているだけである。
葛西城址は、昭和47年(1972)の環状7号線建設に伴う発掘により、主郭を区画している大規模な堀、溝、井戸等が発掘され、陶磁器、 木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかになったそうだ。中には斬首された女性の頭骨などもあり、 当時の刑罰を知る上でも貴重な発見であったとされる。
しかし、結局は環七の下に埋め戻し保存された。即ち、この城が再び地上に姿を現すことはなく、 永遠に見ることは出来なくなったということである(泣)。
(2009/06/02訪れて)

ギャラリー

縄張想定略図(現地説明碑より)   ~クリックにて拡大画面に~

現在の城址!?
誰も、この光景を見て、ここに城があったとは思わないだろう。全ては、道路の下に・・・。 環七の右の木々の処が葛西城址公園。左の木々の左側が道灌山公園。

㊧説明碑、㊨説明板
道灌山公園には、城址碑(TOP写真)の他に、説明碑2基と説明板1つが設置されている。㊧説明碑が2つ。 左側には城址に関する説明のほかに、縄張想定図や発掘時の情景などの写真もある。右側の碑にも、説明等が彫られているが、 御影石が光ってほとんど読めない。㊨結局、この説明板が見やすい!
 

葛西城址公園
こちらの公園には、名前を除いて、城に関するものは何も無い!?

2009/06/02の朝日新聞朝刊   ~クリックにて拡大画面に~
斬首された女性の頭骨が復元され、復顔像が博物館に常設展示に加わったとの記事が・・・。 今回は時間の関係で、残念ながら博物館へは行けなかった。

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