甲斐 獅子吼城(北杜市)

主郭北東部の石積み

武田信玄狼煙ネットワークの重要基地、戦国期には2度の攻防戦も

所在地

山梨県北杜市須玉町江草
【行き方】
根古屋神社の裏山が城址。江草地区に入り、根古屋神社方面を目指すと、獅子吼城への案内板がある。それに従い、新しい道を登って行くと、 峠にある登城口(説明板が設置されている)へ出る。
駐車は、その傍のやや広くなった道端に1台か、そこから50mほど降りたところに4~5台駐車できるスペースがある。 登城口から主郭までは7~8分。

形状

山城(標高793m、比高130m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、竪堀、石塁、復元狼煙台、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/06/07

歴史等

獅子吼(ししく)城の始まりは鎌倉時代末期に遡り、城の東北にある見性寺の寺記に、信田小左衛門実正、 小太郎実高親子が城主としていたが、元応2年(1320)に討死したという記録がある。
また、武田系譜に応永年間(1394~1428)武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したといわれる。
武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であったといわれ、塩川上流の「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」 さらに甲信国境の信州峠。また、西方には「中尾城」「若神子城」「大豆生田砦」「能見城」 「新府城」 などまで遠望できる。
この城をめぐる攻防戦は、戦国期に2度にわたって繰り広げられた。
一度目は、享禄4年(1531)、武田信虎の信州攻略の失策と武蔵川越城の城主上杉朝興の愛妾を信虎が後室に迎えたことに腹を立てた親類筋の大井信業と信虎の重臣飯富兵衛、 栗原兵庫、今井信元らが信虎を見限って、諏訪頼満・頼重父子に奔り、天文元年(1532)4月、諏訪軍と共に、塩川の河原辺(韮崎市韮崎) まで攻め寄せた。
しかし、信虎軍の攻撃で栗原兵庫は戦死し、諏訪軍も敗走した。今井信元は、江草一族を頼って獅子吼城へ落ち延びたが、 信虎軍の攻撃にあっけなく落城した。信虎は、反乱の将・今井信元および江草一族を許し、臣従させ、甲斐一国の統一を完全に成し遂げた。
二度目の戦いは、天正10年(1582)9月、織田信長軍により武田氏が滅亡し、さらには信長も本能寺の変で明智光秀に殺された為、 甲斐国は、小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となった(天正壬午の乱)。
家康は韮崎の新府城に陣し、 氏直は若神子城を本陣とし、大豆生田砦と獅子吼城にそれぞれ兵を配した。9月の初旬、津金衆・ 小尾衆など武田の遺臣たちと服部半蔵率いる伊賀組とがこの城に夜襲をかけて落城させた。
この戦いは家康の勝利が決定的なものとなっただけでなく、甲州における戦国時代最後の合戦であった。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

獅子吼城は、山頂部の東西20m、南北30mの主郭を中心に、北東と南西の斜面に石積みの郭が4段と土塁や帯曲輪を数多く配している。
獅子吼城址の特徴は、何と言っても主郭部周囲に残る石積み群であろう。きちんと積まれて残っている石積みもあるが、大半は崩れ、 そこかしこに石が散乱している光景は凄まじく、まさに「つわものどもが夢の跡」である。
主郭に近づくにつれて石が大きくなり、主郭周囲は巨石も多く利用され、一部は天然岩の急崖となっている。
また、よく見ると、散乱した石や石積みの間に石段や石敷きなどが残っているのも確認できる。
主郭は下草が刈られていたのが有難かった。また、天気が良ければ、塩川沿いの狼煙台ネットワークなども見渡せるらしい。
(2009/06/07登城して)

【余話】
「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」によると、「獅子吼城」という、この何とも勇ましい城名の由来は、この城の山頂に、 守護神が棲んでいたが、信虎軍の攻撃により落城した際、 獅子が吼えるような声をあげて本丸から身を投げて深い淵に沈んだという伝説からだという。
今も、この周辺の村は、獅子舞が村内に入ることを禁じている。また、子供達も獅子頭のオモチャを使ってはいけないと戒めている。禁を破ると、 災難が降りかかるという言い伝えがあったという。
ただ、この「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」は、昭和61年4月の発刊なので、今尚その通りかは分かりません。
(2009/06/07)

ギャラリー

登城口
登城道は、説明板右横の道を入っていく。左の階段上は、藪の中に祠があるだけ。

登城道
しばらく鬱蒼とした中を歩いて行く。途中、下の方に塁段になった削平地(腰曲輪?) や竪堀跡らしきものがある。

堀切
かなり埋まり浅くはなっているが、堀切へ出る。堀の両側には石積みが確認できる。

主郭南東部の崖
上写真の堀切を渡ると、急に転がっている石が増える。そして、左正面に主郭南東部下の岸壁が見えてくる。 まさに、天然の要害だ。

散乱する石・石・石・・・
左手に上写真の急崖を見て、右の方へ進むと、おびただしい数の石がそこらじゅうに転がっている。
 

空堀
主郭東下の散乱する石の中に空堀跡らしきものがあった。

石積みの連続
散乱する石の中を歩いて行くと、次々に石積みが現れる。この石積みが最初に出会った石積みであるが、 これを見付けた時、何となくほっとした。

さらに石積み
さらに石積みを見付ける。よく見ると、石積みの左側は石段になっている。

またまた石積み
この石積みの前も道になっていたようで、よく見ると石敷きになっている。

石積みと腰郭
さらに登っていくと、2段の石積みが現れる。ここは塁段になった小さな腰郭だったようだ。

主郭下の石垣
さらに登り、主郭に近づくに従い、石積みの石が大きくなる。この石積みは、主郭下のもので、 かなり大きな石が使われている。

主郭
主郭には石祠が祀られ、城の説明板や復元された狼煙台が建てられている。主郭は、東西約20m、 南北約30mあり、往時は周囲を土塁が取り囲んでいたのか、北東部から南東部にかけて僅かに土塁が残っている。 狼煙台に使用されていた城だけに、さすがに眺望は良いが、残念ながら靄で・・・。

㊧主郭北東部の土塁、㊨復元狼煙台
 

主郭南西下の腰郭
主郭南西下には、割り合い広い腰郭がある。主郭上から撮ったもの。右に見える説明板には、 狼煙台について説明されている。

主郭南西下の石積み
主郭の南から南西部にかけては、巨石が多く利用されている。

主郭南西2段下の腰郭
主郭南西部は4段の腰郭がある。これは、主郭南西下の腰郭から、その下にある腰郭を撮ったもの。

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