防波堤道路から眺めるモンサンミッシェル
フランスで最も有名な海に浮かぶ巡礼地、中世には要塞化が進んだ
フランス語名
Mont Saint-Michel
所在地
BP 22, 50170 LE MONT ST-MICHEL, FRANCE
訪城日
2011/06/17
歴史等
モンサンミッシェルは、もともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれた花崗岩からなる高さ80mの岩山からなる島で、先住民のケルト人が信仰する聖地であった。
708年、モンサンミッシェルに近い町・アヴランシュの司教オベールが夢のなかで大天使・聖ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを2度も受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。
966年にはノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になった。
そして、中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。
百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。
18世紀末のフランス革命時には、修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィクトル・ユゴーの紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。19世紀には陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス有数の観光地となっている。1979年にはユネスコの世界遺産に登録された。
『「ウィキペディア」、「現地購入誌・モンサンミシェル」他より』
現況・訪問記・感想等
モンサンミッシェルは、フランスでも一番人気の観光地だ。
確かに、頂上部に大修道院教会堂が聳え、ピラミッドのような姿が、海の中に浮かぶ光景は絵になると思うし、見応えのある建築物も多い。
また、アヴァンセの城門を入り、旧市街の中を通るGrand Rue(大通り)の両側に並ぶレストランや土産店などのユニークな飾り看板などを見ながら登って行くのも楽しい。
しかし、僅かな時間の中、パック旅行の決まりきったコースを順番に進むだけで、私が期待する「要塞としてのモンサンミッシェル」の姿は勿論、全容もよく分からずじまいだったのは残念(;>_<;)。
(2011/06/17訪れて)
ギャラリー
羊が待ち構えています!?
バスは、一旦、モンサンミッシェルの全景の写真が撮れるように、防波堤道路に停車。この辺りの干拓地には、羊が放牧されている。この辺りの草地は「プレ・サレ(塩気のある草地)」と呼ばれ、生えている草には海水の影響で自然に薄く塩味がついているそうで、その草を食べて育つ羊には独特の風味があるということで珍重されているのだそうだ。私も、昼食に戴いたが、確かに結構美味かった。
いよいよモンサンミッシェルへ
再度、バスに乗り、すぐ手前の駐車場へ。さすが、フランスでも一番人気の観光地だ。駐車しているバスの数がすごい。
アヴァンセの城門
モンサンミッシェルへは、アヴァンセの城門から入場する。中世においては、旧市街の城門を強化することに常に腐心し、3つの門(アヴァンセの城門、ブルバールの城門、国王の城門)を構えた。
ブルバールの城門
アヴァンセの城門から入城すると、観光案内所があり、右手の方に2つ目の城門・ブルバールの城門が構えられている。
大砲
また、アヴァンセの城門を入ってすぐ脇には、大砲も置かれている。13世紀からは要塞化が進み、英仏の100年戦争では難攻不落の要塞として陥落を逃れた。この大砲は、1433年イングランド軍が島を包囲し、砲撃してきた際のものである。イングランド軍は、花崗岩の玉を打ち込んで激しく攻撃したが、やがて潮が満ちてきて逃走し、残されたのがこの大砲だという。
国王の城門
ブルバールの城門をくぐって入ると、次に、3つ目の城門・国王の城門が待ち構えている。国王の城門は、南側にアルカードの塔と国王の塔(写真右)で守られ、堀、跳ね橋、鬼戸が敵の侵入を防いでいる。写真左のレストランは、モンサン・ミッシェル名物「プラールおばさんのオムレツ」で有名なラ・メール・プラール(La Mere Poulard) 。
跳ね橋と堀
旧市街・グラン・リュ(Grande Rue)
旧市街の中を通るグラン・リュの両側に並ぶレストランや土産店などのユニークな飾り看板などを見ながら登って行くのも楽しい。但し、グラン・リュ(Grande Rue)とは名ばかりの狭い路地でプチ・リュ(Petit Rue)といった方が正解のようだが・・・(笑)。
修道院が頭上に
グラン・リュの坂道を登っていくと、頭上に修道院が見えてくる。
修道院へ登る北側の坂道
修道院への入口
さらに登って行く
Gautier's Leap(ゴーチエの飛び降り)からの眺望
さらに登っていくと、ゴーチエの飛び降り(Gautier's Leap)という所へ出る。ゴーチエの飛び降り(Gautier's Leap)とは、囚人のゴーチエさんが飛び降り自殺した場所だそうだ。ここからは、南方面の景色が広がり、干潟が見える。中央の防波堤道路を境に、右(西)側のブルターニュ地方と、左(東)側のノルマンディー地方に分かれる。
Gautier's Leapから修道院を見上げる
また、真上には修道院の塔が見える。
【修道院教会堂】
西のテラスから修道院教会堂を
西のテラスからは、西と北方面の海が見えるはずだが、この辺りで雨が激しくなり、あまり見えなくなってしまったので写真がない(;>_<;)。
剣と秤を持った大天使ミカエル像
ミカエルは中世の宗教観念の中では天使の軍団長であり、新約聖書の「ヨハネの黙示録」では悪魔の象徴である竜と闘ってこれを打ち負かした。最後の審判では死者の魂を秤に掛け、選ばれたものだけを天国に導いたという。
ちなみにミカエルはジャンヌ・ダルクの前にも現れお告げをし、それによりジャンヌはフランス王を助けて祖国を奪回すべく、イギリスとの戦争に参加したとされている。
ロマネスク様式の身廊(11世紀)
フランボワイヤン様式の内陣(1450~1521)
【ラ・メルヴェイユ(驚嘆すべきもの)】
ラ・メルヴェイユは、大修道院のゴシック様式の部分で、狭すぎて快適さに欠けるロマネスク様式の修道院の建物を置き換えるために、13世紀初めの破壊のあと建設された。高くそびえた大きな壁及び強力な控え壁によって、どのような攻撃に対しても大修道院の防備を固めるのに役立ったのである。
ゴシック様式の内庭回廊(13世紀初頭)
ラ・メルヴェイユの最上階には、優雅な回廊が庭を囲んでいる。かつては、修道士専用の場所で、ここで散歩や会話を楽しんでいたという。
回廊から大修道院の庭を見下ろす
左は西テラスの城壁で、干潟は北西方面になる。
食堂(13世紀初頭)
天井の半円筒アーチの形をした骨組みは、巨大な船底を反転した形である。
騎士の間(13世紀初頭)
この名前は、ルイ11世が創設した聖ミカエルの騎士たちが構成した騎士団に由来するが、その騎士団のいかなる集会もこの部屋で開催されることはなかったようで、この部屋は、修道士たちのショフォワール(暖房のしてある休憩室)であったという。
迎賓の間(13世紀初頭)
巡礼にやってきた王や貴族たちを迎える部屋である。
【地下礼拝堂】
車輪(19世紀)
修道院は、18世紀末のフランス革命時には廃止され、1863年まで国の監獄として使用された。そして、監獄管理局が納骨堂跡に大車輪を設置し、囚人を車輪の内側に入れて歩かせ、回転させたという。車輪は、岩山に沿って差し掛けられた滑り台(石の梯子)に沿って荷車を引き上げることができるようになっていたそうだ。
サンマルタン礼拝堂
この簡素な地下礼拝堂は、教会堂の南側交差廊を支えている。