備中 足守陣屋(岡山市)

足守藩主屋形構(御屋敷)跡に残る掘割(水堀)

豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の実兄・木下家定の陣屋

所在地

岡山市北区足守
【アクセス】
足守小学校の西にある公園が陣屋跡。小学校の南側の道路を東へ100m程進んだ左手などに観光者用無料駐車場がある。
足守小学校:足守789、電話086-295-0058

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】 公園
【遺構等】 掘割(水堀)、石垣、土塁、庭園、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2012/01/08

歴史等

姫路城2万5千石の城主であった木下家定(豊臣秀吉正室北政所ねねの実兄)は、慶長5年(1600)の関ヶ原の役が起こると、北政所の守衛にあたり、合戦後の翌6年(1601)に徳川家康から備中国賀陽・上房両郡内において2万5千石を与えられ足守に陣屋を構えた。
家定の嫡男勝俊は、慶長3年(1598)、秀吉から若狭小浜(後瀬山城)6万2千石に封ぜられていた。勝俊は関ヶ原の役の時、伏見城の総大将となったが、西軍の攻撃前に逃亡したため、合戦後、領地を没収され、剃髪して京都に隠棲した。
慶長13年(1608)に家定が没すると、勝俊と二男利房の兄弟に遺領の相続が許されたが、北政所が勝俊のみに与えたので、家康の怒りに触れ、再度没収された。
木下氏除封後の慶長15年(1610)、浅野長政の三男長晟が賀陽郡内において2万4千石を与えられて入封したが、同18年(1613)に兄幸長が没し、遺領の紀伊和歌山37万6千5百余石を相続したため、足守藩領は一時幕府領となった。
その後、大坂の陣の功により、元和元年(1615)の夏の陣の後に、利房が再び足守藩2万5千石を与えられ、6年目にして足守藩主木下家が復活した。利房は、藩主の居館の屋形構(御屋敷)を中核にして、藩庁や侍屋敷さらには町屋の整備を図って、治所の建設に努め、5代藩主利貞の時(17世紀末)に足守藩陣屋町の完成をみた。
そして、明治維新に至るまで存続して13代の藩主を数えた。
尚、木下家定の男子には長男勝俊、二男利房、三男延俊(豊後日出藩祖)、五男秀秋(豊臣秀吉の養子から小早川隆景の養子となり、関ヶ原合戦の裏切りで有名。最期は備前岡山城主に)などがいる。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「現地説明板」等参照』

現況・登城記・感想等

足守陣屋は、宮地山を借景にした庭園「近水園」とともに公園として整備されてはいるが、予想に反して、陣屋周囲の水堀や石垣が完存していて得した気分になった(*^_^*)。
また、侍屋敷(家老宅)も残っており見学もできる。
足守は、公共施設は勿論のこと、個人宅なども、海鼠壁などが構えられたりして、町そのものが江戸時代の風情を醸し出し、散策するのもお薦めだ。
(2012/01/08訪れて)

ギャラリー

公園(陣屋跡)入口前に立つ石碑と説明板
明治維新後に廃止された足守陣屋跡は、文教施設の場として、旧制女学校、公民学校、青年学校、新制足守中学校などに継承され、最後に使われていた足守小学校のプールと足守幼稚園が移転された後、平成7年公園として整備された。公園への入口手前に、「足守藩木下家陣屋跡」の石碑と「足守藩屋形構跡」の説明板が立っている。
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掘割(水堀)
陣屋跡南東面と南西面の堀が良好に残り、この入口付近のクランク状に曲がる堀がかっこいい。
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近水園
藩主木下家の庭園で、足守川の右岸にあるので近水園と称した。
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侍屋敷(家老宅)
陣屋の近くには、白壁の長屋門と土塀に囲まれた侍屋敷(家老杉原家旧宅)が現存し見学もできる。伝統的な武家書院造の構造を持つ母屋は、武家屋敷の原型といわれている。
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木下利玄生家
陣屋跡のすぐ横には、大正期の白樺派歌人木下利玄の生家がある。木下利玄は、最後の藩主利恭の弟利永の次男で、5歳の時に叔父の養嗣子となった。
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緒方洪庵誕生地
足守川の左岸には幕末の蘭方医学の大家緒方洪庵誕生地があり、立派な銅像と石碑が建てられている。緒方洪庵は、足守藩士佐伯瀬左衛門惟因の三男で、父は大坂蔵屋敷留守居であった。
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