備中 撫川城(岡山市)

撫川城本丸石垣と周囲をめぐる水堀

備前の宇喜多直秀の侵攻に備え築いた城、毛利方境目七城の一つ

読み方

なつかわじょう

別名

芝揚城(こうげじょう)

所在地

岡山市北区撫川、撫川城址公園
大乗院の南西に水堀があり、ここが庭瀬城跡である。撫川城跡は、その150mほど西にあり、庭瀬城址の北側道路沿いに案内パンフレットが用意されており、また、いろんな場所に地図付きの案内板があるので分かると思います。車は、大乗院の駐車場を拝借した。
大乗院:北区庭瀬866-4、電話086-293-2549

形状

平城(沼城)

現状・遺構等

【現状】 撫川城址公園、岡山県指定史跡
【遺構等】 本丸、現存門、石垣、土塁、水堀、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/01/08

歴史等

撫川城は、永禄2年(1559)に備中成羽城主の三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築かれた。
天正10年(1582)の備中高松城攻防の折りには、毛利方の国境防備の七城(境目七城)の一つとなり、羽柴秀吉軍によって攻められ落城した。 城は、宇喜多氏の所領となり戸川氏が城主となった。
その後は、宇喜多氏の部将が相次いで城番として在城し、慶長年間(1596~1615)以降、庭瀬は戸川達安の所領となり、当城の東に新しく陣屋(庭瀬城)が構えられた。戸川達安は、元々、宇喜多氏の麾下に属していたが、慶長4年(1599)の家中騒動を機に主家から離れ、翌5年の関ヶ原合戦では徳川方に属して戦功を立て、都宇・賀陽両郡のうち2万9千余石を与えられて入部したのである。
戸川氏は、4代安風が嗣子なく、改易となったが、その弟達富が撫川領分(5千石)を継ぎ、庭瀬城の本丸・二の丸に知行所を設けた。
『「現地説明板」、「日本城郭大系13」より』

現況・登城記・感想等

撫川城は、庭瀬城跡の西、僅か150mほどにある。元々、撫川城と庭瀬城は、一体の城であったが、江戸時代に撫川城の一部を利用して庭瀬城が築かれ、その後、別の曲輪を利用して、また新たに陣屋が築かれたのだ。
撫川は旗本領であるとはいえ、同時期に、こんなに近い場所に二人の城主がいたというのに驚いた。
現在残る撫川城址は、小規模ながら、本丸周囲の満々と水を湛えた堀と本丸石垣、そして水面に映る本丸石垣と木々の光景が印象的だ。
この地は水が豊富で、縦横に水路がめぐり、往時の面影が偲ばれる。
(2012/01/08訪れて)

ギャラリー

庭瀬・撫川散策案内図(現地説明板より)
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満々と水を湛えた堀に浮かぶ本丸(南西から撮影)
本丸の南・西・北辺には、水面から高さ4.5mほどの野面積みの高石垣が残る。本丸周囲をめぐる満々と水を湛える堀は、平均幅15mほどある。
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現存門(撫川知行所総門)
堀を渡り、本丸虎口には撫川知行所総門が移築現存している。
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土塁
本丸跡南東部には高さ2mほどの土塁が残っている。
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井戸
本丸中央には、井戸が残っている。
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縦横にめぐる水路
この地は水が豊富で、縦横に水路がめぐり、往時の面影が偲ばれる。
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法万寺川
法万寺川は、高梁川合同堰から取水された農業用水が足守川経由で流れてきている。江戸時代は、撫川城や庭瀬城の外濠の役割もしていた。また、水路を水運として利用し、備中南部の舟物資集散地の要所として栄えていた。
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