淡河城全景
鎌倉北条一族淡河氏~有馬氏、400年の城
読み方
おうごじょう
別名
上山城(うえやまじょう)
所在地
兵庫県神戸市北区淡河町淡河(道の駅淡河の南西の丘)
所要時間
道の駅淡河の駐車場から7~8分
形状
丘城(比高約20m)
現状・遺構等
【現状】 淡河城跡市民公園
【遺構等】 曲輪(本丸)、土塁、天守台、空堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2012/01/07
歴史等
承久3年(1221)の承久の乱で大勝した鎌倉幕府執権の北条氏は、公家らの所領を没収し、全国の領主を大幅に入れ替えた。淡河庄も幕府副執権北条時房の所領となり、同4年には地頭職として北条一族の右近将監成正が派遣され、庄名をとって淡河氏を名乗り、淡河城を築いたと言われる。
南北朝時代には、淡河氏は南朝方に属したため、赤松氏により淡河城は落城した。 その後、淡河氏は赤松氏に属し、摂津・播磨国境の守備に当たった。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際には、淡河氏も争いに巻き込まれ淡河氏は降伏して、山名氏の支配下に入り、その後、淡河氏は周辺の城主を次々と配下におさめて勢力を拡大していった。
応仁元年(1467)に赤松政則が兵を挙げ、山名氏を奪回した際には、赤松氏方に復帰して活躍した。
その後、長享2年(1488)に別所氏が三木城を築き、東播磨8郡24万石の太守になると別所氏に属した。
天文23年(1554)有馬郡の有馬氏に攻められ、淡河城は落城したが、永禄元年(1558)には元に戻り、別所氏の重臣として活躍した。
しかし、羽柴秀吉による天正6年(1578)からの三木城攻めの際に、淡河定範は三木城主別所長治に従い、羽柴秀吉に攻められ落城し、淡河氏も滅亡した。
淡河氏滅亡後、淡河城は、淡河攻めに功のあった有馬則頼に与えられ、淡河庄3千2百石を領した。その後、則頼は秀吉と明智光秀の山崎合戦にも参戦し、美嚢1万5千石の大名になった。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、則頼は東軍につき、その功で、翌6年有馬郡2万石の領主になり摂津三田城に入った。
淡河城は、元和元年(1615)の一国一城令により取り壊され、約400年の歴史を閉じた。
『ひょうごの城(神戸新聞総合出版センター刊)より』
現況・登城記・感想等
淡河城は、淡河川に突き出すような河岸段丘の突端に位置し、南側以外の3方は約20mの急崖の天然の要害になっている。
城域は、南北約500m、東西約200mという広大なもので、本丸・天守台・二の丸・南の丸・西の丸が配置されていたという。
今では、ほとんどが田園と化しているが、本丸部分は良好に残り、南東部と南西部には土塁が残っている。南東部の土塁の西隅部分は天守台で、高さ約3mほどある。
また、土塁の外側には内堀も良好に残っている。南西部の内堀は竹藪になっていて見辛いが、南東部のL字型に折れた内堀はなかなか見応えがある。
南東部の内堀の外側は、今は畑になっているが、二の丸跡であり、その北東部が竹慶寺跡で、淡河家廟所がある。
本丸東隅に模擬櫓が建てられており、城の北側下にある「道の駅淡河」から見上げる光景が微笑ましい感じがする?
(2012/01/07登城して)
ギャラリー
淡河城本丸周辺縄張略図
道の駅淡河から淡河城を
道の駅淡河の南西側すぐ裏の丘が淡河城址で、小さな模擬櫓と「淡河城址」の大きな看板が見える。淡河城へは、この道の駅の駐車場を拝借して登城。
淡河川
淡河城は、淡河川に突き出すような河岸段丘の突端に位置し、南側以外の3方は約20mの急崖の天然の要害になっている。当然のごとく、淡河川は水堀の役目をしていた。川を渡っていざ登城!
模擬櫓
城址へ登れるように整備された道を登ると頭上に模擬櫓と「淡河城址」の看板が・・・。
土塁
登り切ると、本丸跡で、良好に残る土塁が現れる。土塁は南西部と北西部に築かれ、その他は、土塁は築かれていないが、急崖になっており、防御は万全? 写真中央奥の土塁が切れているところは本丸門跡。
稲荷神社拝殿
土塁の上には稲荷神社の拝殿が建っている。拝殿内には淡河城や淡河氏に関する説明書や淡河合戦の絵図などが展示されている。
土塁上から本丸を
本丸は、かなり広く、東西55m、南北70mある。
拝殿横から本丸南東部の空堀(内堀)と二の丸を見下ろす
土塁(拝殿)の南東には立派な空堀が見える。空堀の向こうは畑になっているが、二の丸跡である。写真左側(空堀の左)は淡河氏の菩提寺であった竹慶寺跡である。
天守台
南東部の土塁の南西隅は天守台で、今は稲荷神社の境内になり、有馬氏の子孫有馬頼寧氏が書いた「淡河城趾」の立派な(高さ3mはあるだろう)石碑が立っている。
南東部の土塁
本丸内南側から撮ったもので、右部分が天守台であり、高さ3mほどある。
本丸門跡
本丸南部分で、土塁が切れているが、ここにはかつて本丸門があった。
南西側の空堀(内堀)
本丸南西側の土塁の外側にも空堀が残っているが、今は竹藪に・・・。
南東部の空堀(内堀)
こちらの空堀は、よく見える。左上が天守台。
淡河氏廟所
二の丸の北東部には、かつては淡河氏の菩提寺である竹慶寺があった。竹慶寺は江戸時代中期頃に廃寺となったが、その南隅に歴代城主の墓碑があり、発掘調査時に見つかった石碑なども置かれている。