播磨 三木城(三木市)

本丸跡(中央奥が天守台、右城壁の下は絶壁)

秀吉による「三木の千殺し」で城主別所長治以下一族が自刃し開城した城

別名

釜山城、別所城

所在地

兵庫県三木市上の丸町(上の丸公園)

形状

平山城

現状・遺構等

現状:上の丸公園、市街地
遺構等:曲輪、空堀、天守台、本丸井戸(かんかん井戸)、模擬城壁、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2006/11/26

歴史等

三木城は、室町時代の15世紀後半に別所則治によって築かれという。則治は、15世紀末、突如として歴史に登場するや、 播磨守護赤松政則の復権に大功を成し、やがて赤松家臣団内に重きを成し、赤松氏を支え続けた。
しかし赤松氏は、盟主としては頼りなく、天文7年(1538)と翌年、山陰の尼子氏が侵攻すると国を捨てて逃げ出す始末であった。さすがに、 別所氏も見限り自立していった。しかし、自立といってもまだまだ後ろ盾がいった。そこで選んだのが畿内政局を握る細川晴元であった。 そのため真の実力者三好長慶の攻撃を受け、天文24年(1555)、別所氏はついに三好方と和睦し、配下に組込まれた。
永禄11年(1568)織田信長が入京すると、時の当主安治はすばやく信長へと鞍替えした。 そして、信長の中国攻略では、 5代目城主別所長治は先導役をつとめるはずであった。
ところが、天正6年(1578)長治は突如として毛利氏へ鞍替えした。別所一党は、信長の残虐さを嫌悪し、 いずれ自分達を滅ぼすつもりではという不安も覚えていた。三木城は信長の家臣羽柴秀吉の軍に包囲され、1年8ヶ月に及ぶ兵糧攻めに逢い、 天正8年(1580)1月17日城主一族は領民の命を救うため自刃して三木城を開城した。これが「三木の千殺し」と称された戦いである。
その後は、羽柴秀吉はじめ家臣の杉原氏・中川氏などが城主として次々と入れ替わった。そして江戸時代になって、元和2年(1616) 小笠原忠真を領主とする明石藩に編入され、元和3年(1617)に幕府による一国一城令により廃城となった。このとき、 三木城の資材は明石城の建築部材に使用されたと伝えられている。
『参考:「現地説明板」、「日本の名城古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」』

現況・登城記・感想等

三木城といえば秀吉による「三木の千殺し」である。
秀吉の城攻めをして2年近くも寄せ付けなかった堅城も今では、神戸電鉄・ 三木上の丸駅のすぐ南側の丘陵に本丸だけが上の丸公園として残っているだけである。そして本丸跡には天守台と井戸(通称かんかん井戸) が残っており、別所長治が馬に乗った石像もあった。また、 三木城址の説明板の他に三木城包囲の秀吉軍武将配置図や三木城復原図等々の説明板がいっぱいある。 天守台には長治や別所一族による辞世の句の石碑があった。
本丸からの眺望はよく、真下には美嚢川、その向こうには町並み・山並みが見渡せる。この眺望が往時を最も偲ばせるものかもしれない。
(2006/11/26登城して)

ギャラリー

天守台

別所長治辞世句の石碑  ~クリックにて拡大画面に~

本丸井戸(かんかん井戸)
本丸跡に残る唯一の井戸で、口径3.6m、深さ25mを測る大きなものである。石を投げ込むと「カンカン」 と音がすることから「かんかん井戸」とも呼ばれている。

別所長治石像

三木城本丸からの眺望
本丸からの眺望はよく、真下には美嚢川、その向こうには町並み・山並みが見渡せる。 この眺望が往時を最も偲ばせるものかもしれない。

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コメント

三木 康(2010/01/31)

ブログ拝見しました。三木氏は私のご先祖様かもしれません

タクジロー(2010/02/02)

三木康さま
御訪問ありがとうございます。すごい歴史ですよね。
『三木城の篭城戦は日本歴史上、類を見ないほどのものであったと共に、この戦いに参戦したことを誇りとした人達も多く、篭城戦後に開放された後、帰農し、江戸時代の約300年間代々語り継がれて来た。播州に居る「三木」さんの中に三木の篭城戦に参戦したことを誇りとして、明治3年に苗字を名乗ることを許された時に先祖の功績を称えて「三木」と言う苗字を名乗った人が結構居る。たつの市出身の三木露風も先祖が三木城篭城戦に参加したと言われている。』と司馬遼太郎さんが講演で話されたとの記憶があります。
まさに誇るべき姓ですね。

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