摂津 三田城(三田市)

本丸・二の丸間の堀

有馬氏・荒木氏等が居城、江戸期には水軍の将・九鬼氏の陣屋が

別名

車瀬城、三田陣屋

所在地

三田市屋敷町2丁目 三田小学校・有馬高校周辺
三田小学校:TEL079-562-4751、有馬高校079-563-2881

形状

平城、陣屋

現状

現状:三田小学校、有馬高校他
遺構等:堀、大池、移築城門(金心寺)、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/02/05

歴史等

三田城(さんだじょう)の築城については、いくつか説があり、一つは旧有馬郡を領有していた有馬氏の主城と云われ、 南北朝時代に赤松円心の4男氏範が基礎を築き、有馬氏の祖・義祐が有馬郡守護となり修築したとされる説、 その2代後の村秀の時に築かれたとする説がある。また、文献史料には有馬氏の城がどこにあったのかは明確にされておらず、 城として整備されたのは、天正年間に荒木氏が三田の支配を始めた時で、荒木平太夫が築城したとする説もある。
近世以降の三田城は、天正年間の荒木氏の摂津国支配に伴い、荒木平太夫が城主となる。荒木氏が織田信長に背くと、天正6年(1578) に織田軍の羽柴秀吉・明智光秀・筒井氏等の武将に攻められ落城した。
その後、一時期池田氏による支配を受けた後、三好秀次(後の豊臣秀次)により支配された。
天正10年(1582)に山崎堅家が近江から三田に2万2千石で入封し三田城を修築し、子の家盛の2代にわたり三田を支配した。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、山崎氏は西軍につき、因幡国若桜に転封となり、翌6年(1601) 代って東軍についた有馬則頼が播磨三木より2万石で入封した。
慶長7年(1602)則頼が没し、丹波福知山6万石の城主有馬豊氏 (則頼の子)の領地となり、三田領は福知山藩領に合併され、三田城も破却され廃藩となった。
寛永3年(1626)豊氏は筑後久留米へ転封となり、 出羽上山より松平(能見)重直が3万石で入封したが、わずか6年後の寛永10年(1633)豊前龍王へ移封となった。
同年、九鬼久隆が3万6千石で入封したが、処遇は領主であり、三田城を廃して古城とし、城跡の南部と西部を整備して三田陣屋を築いた。 九鬼氏は以後明治4年(1871)まで13代238年続いた。
近世後半10代隆国の時、家格が城主格となり城と呼称されたが、幕府は陣屋として取り扱った。
『「三田市歴史資料館資料」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」より』

現況・登城記・感想等

大阪や神戸の近郊三田の市街地にありながら、堀や大池などが残り嬉しかった。
本丸(三田小学校)と二の丸(有馬高校)の間の堀は規模も大きく見応えがある。また、 大池越しに見る三田小学校の眺めは往時の感じがよくわかる。
(2008/02/05登城して)

ギャラリー

縄張図           ~クリックにて拡大画面に~

城址碑と説明板(三田小学校校門脇に)

本丸・二の丸間の堀
この堀は非常に大規模で見応えがある。正面土塁奥は水堀になっている。

本丸・二の丸間の水堀

大池越しに本丸跡に建つ三田小学校を
大池越しに見るこの光景は往時の様子を偲ばせてくれる。

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