関ヶ原合戦時、直江兼続率いる上杉軍を討ち破った城
別名
月岡城
所在地
山形県上山市元城内3-7
形状
平山城
現状・遺構等
現状:月岡神社、公園
遺構等:模擬天守、模擬城門、石垣、土塁、堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/11/28
歴史等
上山(かみのやま)は、室町時代の応永年間初期(1400年頃)に、羽州探題で最上氏の祖・斯波兼頼の曾孫・里見満長が着封し、
上山氏と称して虚空蔵山に山城を築いたのが初めとされ、高楯城または亀ケ岡城と言われていた。
永正11年(1514)には、伊達稙宗に攻略され、翌年和睦し返還された。
5年後に再び攻略されたが、天文4年(1535)満長の子孫・武衛(武永)義忠が挙兵して奪還し、高楯城を廃して、新たにこの地・
天神森に平山城を築き、月岡城とも称した(享禄元年・1528年との説もある)。
この地は、羽州街道と米沢街道の分岐点に近く、山形の最上氏と米沢の伊達氏が、しばしば衝突した地でもあった。最上義光は、
山形城以北の村山郡・最上郡に駒を進めつつ、南部の領国化も強行した。
時の月岡城主・満兼も義光とは対立関係にあり、伊達輝宗と結んで山形領に攻め込み戦ったとの話もある。
しかし、その後、義光は、満兼の家臣・里見親子を懐柔し、満兼を暗殺させ、月岡城を乗っ取った。こうして、義光は山形城の南部の重要拠点を手にし、
里見氏を城主に据えた。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦時、東北地方では上杉景勝と最上義光が対立し、直江兼続率いる上杉軍が上山城に攻撃を仕掛けたが、
里見民部は周囲の山に奇襲部隊を配して直江軍を背後から急襲し大戦果を挙げた。
元和8年(1622)最上家改易後は、能見松平氏、蒲生氏等を経て、土岐氏2代が領した。この土岐氏の17世紀の後期が、
城郭として最も整備され、白壁の城壁をめぐらした上山城は、小藩(2万5千石)ながら、奥羽の名城と称されていたと伝えられている。
しかし、元禄5年(1692)土岐氏が転封後は一時廃城となり、幕府の命により跡形もなく破壊された。
以来、上山藩は金森氏、藤井松平氏(3万石)10代の治領下で170年間、代々城の再建が宿願であったが、
明治維新まで一部を修復するに止まり、再築されることはなかった。
周囲の堀も、明治5年に埋め立てられ、城の西側に僅かに内堀の名残を留めている。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
上山城は、本丸跡は月岡神社となり、二の丸跡南東に模擬天守(郷土歴史資料館)が建てられている。
往時は、本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外堀がこれを取巻き、山上の本丸も水堀で囲まれていたそうだ。
今は、遺構としては、西内堀の一部と石垣の一部や土塁が残る程度で、模擬天守だけが目立つが、廻って見ると、それなりに旧状も残り、
小ぶりなだけに、往時の外郭も分かりやすい。
(2008/11/28登城して)
ギャラリー
模擬天守と模擬城門
一部残る石垣
月岡神社の裏手の坂道に石垣が僅かに残っている。ホントニ、ワズカだ!!
西内堀
これも僅かに残る遺構の一つだ。
土塁
本丸南東部(月岡神社と模擬天守の間)には50~60mほど土塁が残っている。
土塁と堀
本丸南東部の土塁外側には現在では空堀となり僅かに窪みになって残っている。
石碑
本丸跡の月岡神社入口の鳥居の脇に、表側には「月岡神社」、境内側には「月岡城址」
と彫られた石碑が立っている。こういうのも珍しいね。
【天守上から】
本丸(月岡神社境内)
二の丸
堀切に橋が架かっているのが見える。
眺望
天守上からの眺望は360度素晴らしい。本来は、左上に蔵王連峰が望めるようだが、
雨が上がったばかりで雲の中!