出丸と西丸間の堀切と土塁
沼田川対岸の新高山城へ移るまでの小早川氏の本拠の城
別名
古高山城
所在地
広島県三原市高坂町真良、本郷町本郷
形状
山城
現状等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、井戸、土橋、遺構案内板、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2012/01/09
歴史等
小早川氏の祖先、土肥実平・遠平父子は、源頼朝の平氏追悼に当って終始勲功をたて、はじめ備前・備中・備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田荘、沼田川流域一帯、蓮華王院領の地頭職を得ると一族をあげて相模国から西遷してきた。そして建永元年(1206)、遠平の孫・茂平が東国より沼田荘地頭に任ぜられ城を築いたのが妻高山城のはじまりである。
のちに茂平は、三男雅平を惣領として沼田本荘を継がせ、弟季平に沼田新荘を、長男経平に船木郷を、四男政景には竹原荘を譲り、それぞれ一族庶子に分割相続を行った。
そして、鎌倉・室町時代を通して高山城は、沼田小早川(本家)が居城した。この高山城は、山頂は谷を挟んで前後に区画され、北側に本丸・二の丸・北の丸を配し、南側に西から出丸・権現丸・イワヲ丸・南丸・出丸など多数の曲輪が構築され、広さ16haに及ぶ巨大な山城である。
天文19年(1550)嫡流・小早川氏の当主・繁平が病弱だったため、竹原小早川氏から妹婿として隆景が17代として迎えられ、本家と分家はひとつになり、翌年には木村城から高山城へ移ってきたが、隆景は中世の縄張りである高山城を廃し、戦国時代に相応しい城をと支城を大改修し新高山城を築いた。
『「新高山城案内板」、「歴史と旅(秋田書店刊)」参照』
現況・登城記・感想等
道路を挟んで、新高山城と同じくらいの高さで、双子のように相対している城である。
高山城の縄張りは、谷を挟んで、「ハチツコ・扇の丸・本丸・二の丸・北の丸」と「出丸・西丸・イワオ丸・高野丸(権現丸)・太鼓丸・西の丸」の2つの尾根ラインの上に築かれた曲輪群が平行に並んで築かれている。即ち、2つの連郭式山城が平行してあるような感じである。
尤も、それが分かったのは、帰ってきてから分かったことだが・・・汗。
本来は、城址北東の搦手に登城口と案内板があるらしいのだが、私は、南斜面の中腹住宅街から山に入ってしまい、肝心の本丸のある尾根ラインを観ずに下山してしまった(/。ヽ)。
それでも、山上にあるにも関わらず、かなりの広さを持つ権現丸をはじめとする各曲輪や出丸と西丸間の堀切、イワオ丸下の石垣群等々、見どころは多く、これだけでも満足度は★★★★☆だった。
本丸のある尾根ラインを見落とさなかったら、どんなにか中世城郭を楽しめただろう?恐らく、新高山城と同様、満足度は★★★★★だろうと思うと残念無念(;>_<;)。
機会があれば、是非、再登城したい城だ。
それにしても、妻高山城は、新高山城にも劣らないほど広大な城であるのに、何故、わざわざ新たに新高山城を築いて移る必要があったのだろう?
(2012/01/09登城して)
ギャラリー
妻高山城鳥瞰絵図(現地説明板より)
妻高山城と新高山城址
妻高山城と新高山城は、どちらも同じくらいの高さの双子のような山で、沼田川を挟んで並び立っている。この写真は、両城址の北側から撮ったものである。
妻高山城を仰ぎ見る(新高山城駐車場から)
妻高山城の下を、新幹線が貫通している。
【登城記】
本来は、城址北東の搦手に登城口と案内板があるらしいのだが、私は、南斜面の中腹住宅街から山に入ってしまった。
登城道
登り始めると、すぐ、片側が崖になった急坂道になる。
眺望
登り始めると、すぐに、眼下になかなか素晴らしい眺望が見えてくる。ただ、この先は、あまり眺望はよくない。
堀切
登り始めて10分弱で、鞍部に出る。ここは、自然の鞍部に手を加えた堀切になっているようで、そのまま竪堀となって山裾へ延びていってるようだ。
出丸下の竪堀
さらに1~2分どど進むと、左手に竪堀が現れる。
出丸の土塁を見上げる
竪堀の右上を見ると、竪堀は、その上の土塁から落ちてきているのが分かる。そして、出丸の西丸側には土塁が設けられ、そこに石積みが築かれている。
西丸と出丸間の堀切へ
土塁と西丸間には堀切が設けられているが、そこへ登っていくことができる。
西丸(左上)と出丸(右の土塁側)間の堀切
この堀切は、良好に残っている。
西丸から堀切越しに出丸を
本丸への案内板
西丸から、さらに1~2分ほど進むと、右手に本丸への案内板が立っている。あまり整備されていないようだが、向かっていったが・・・・。
どうも怪しい?
案内板に従い、進んで行くと、すぐに道はなくなり、ただの傾斜になる。さんざん迷った末、左手上の崖を登っていったが・・・。
石垣が・・・?
崖斜面を登れそうなところを捜しながら登って行くと、石垣が見付かった! そこを何とか登って行くと、何と、イワオ丸へ出たのだ(苦笑)。この石垣はイワオ丸の石垣だったのです。
イワオ丸
本丸へ行くのは、一旦諦め、案内板のところへ戻り、西へ向かうと一段高い場所へ出る。そこが「イワオ丸」で、曲輪の北側には巨大な岩が。
井戸跡?
イワオ丸の巨大な岩の下に、井戸跡のような石組みがあるが・・・?
イワオ丸の東下の削平地
イワオ丸の西側は雑木林や竹藪になっているが、よく見ると腰曲輪のような平坦地になっている。この平坦地が何なのかは、あとで調べたが分からない。
石垣群
イワオ丸から権現丸へ向かうと、途中、右手の藪の中にに、一部刈り取られたところがあり、降りて行くと、幾段にも石垣があった。適当なところで戻ってしまったが、この道?は、本丸へ続く道だったようだ(;>_<;)。
権現丸への土橋
イワオ丸から西へ進むと、一段高い場所へ登って行く土橋がある。
権現丸
土橋を登って行くと、細長いが、広い曲輪へ出る。中央に少し盛り上がったところがあり、周りに石が転がり、そこに三角点の杭が立っている。190.2mとあり、ここが妻高山で最も高い場所だ。
太鼓丸?
権現丸の先端下には腰曲輪があるが、太鼓丸だろうか? 自信はありません( ̄ー ̄;。あとから調べた現地説明板(鳥瞰絵図付き)によると、この先に西の丸等の曲輪があるはずだが、この先へ向かう道は分からなかった(/。ヽ)。
太鼓丸?から新高山城を
ここまで、新高山城は、全く見えなかった。実際のところ、鳥瞰絵図と見比べても、一体、何処を登って来たのかがよく分からないのです( ̄ー ̄;。