JR三原駅のすぐ前に残る天守台
小早川隆景が精魂傾け築城した海城も、今は本丸がJRの土台や橋脚に
別名
浮城
所在地
広島県三原市城町(JR「三原駅」周辺)
形状
平城(海城)
現状・遺構等
【現状】 市街地(JR三原駅等) 国指定史跡
【遺構等】 天守台、船入櫓跡、石垣、水堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2002/02/11
2012/01/09
歴史等
沼田小早川家を継いだ小早川隆景は、これまで妻高山城の対岸にあった新高山城の大改修を行い、天文21年(1551)に移った。
しかし、やがて隆景の目は沼田の河口寄りへと注がれていく。それが三原城であり、それは配下の瀬戸内衆を統制して山陽の海岸線を握り、 同時に、九州から畿内の情報を感じ取っていたためだという。
三原城は対織田戦において毛利水軍の出動基地となり、さらに本営ともなっていく。
しかし三原城の海城としての完成に本腰を入れ、工事が城下整備に進む頃、時代は豊臣秀吉の天下となり、天正15年(1587) 隆景は筑前一国を与えられ名島城(福岡市)に居城を移したが、三原は手放さなかった。
さらに、秀吉の甥・秀秋を養子に押し付けられた。隆景はさっさと筑前を秀秋に譲り、文禄4年(1595)、本拠と決めた三原に戻って来た。 そして、翌年の慶長元年(1595)、新高山城などの資材を惜しみなく使い、再び三原城の工事を始めた。
しかし、隆景の余命はいくばくもなく、翌年没したのである。
関ヶ原合戦後は、福島氏、次いで浅野氏の支城として明治を迎えた。
三原城は海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能を備えた名城で、満潮時には、あたかも海に沈んだように見えたので「浮城」 と呼ばれた。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「現地案内板」参照』
現況・登城記・感想等
三原城は、毛利の名将・小早川隆景が精魂を傾けて築城した城である。
JR三原駅のすぐ前に天守台が残っている。非常に大きくて立派な天守台であるが、何と、 天守台に続く本丸がJR三原駅の土台や鉄道の橋脚に使われているw(*゚o゚*)w。明治時代のこととはいえ、何とも無残(/。ヽ)。
三原城は典型的な海城で海に繋がっていたとのことであるが、今では、本丸天守台と周囲の水堀と船入櫓跡の石垣と水堀(往時は海であった)が残るのみで往時の様子を偲ぶよすがもない。
(2002/02/11、2012/01/09訪れて)
ギャラリー
天守台へ
天守台はJR三原駅と繋がっていて、駅の2階から上れる。(6:30~22:00)
天守台上
三原城の天守台は日本一の規模を持つといい、広島城の天守閣なら6つも入る広さなのだそうだ。尤も、初めて天守閣が建てられたのは、三原城が築かれた永禄10年(1567)より約10年後に信長によって安土城が築かれた時のことであり、三原城には天守閣は建てられず、隅櫓程度の建物が建てられていたようだ。
天守台上から北面水堀を
天守台の東・西・北には内堀が残っている。現在(2012/01/09)、堀の外側が発掘調査中。
天守台を南西から
三原城の天守台石垣は、余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」であるが、宝永4年(1707)の大地震で東北陵面が破損したため修理したものの、400年を経た今日まで立派に伝えている。「アブリ積み」とは、面の方が控え(奥行き)よりも寸法が大きいため、あごだしや目違いがおこりやすいので崩れやすく、石垣を積む技術としては邪道で、基本的にやってはいけないのだそうだ。
本丸から天守台東面にかけての石垣と堀
本丸部分を貫通しているJR三原駅
天守台に続く本丸がJR三原駅の土台や鉄道の橋脚に使われているw(*゚o゚*)w。 明治時代のこととはいえ、何とも無残(/。ヽ)。
船入櫓跡(東面)
かつての規模は、櫓台石垣の高さ4間(7.2m)、船入りの幅12間(21.6m)、広さ20間(36m)、深さ1丈(3m)であった。また、現在は水堀になっているが、往時は海であった。
船入櫓跡をズームアップ
船入櫓南西面石垣