備前 徳倉城(岡山市、旧御津町)

本丸虎口へ至る登城道と石垣

金川城の出城、のちに宇喜多秀家に滅ぼされ宇喜多氏重臣遠藤氏が居城

読み方

とくらじょう

別名

土倉城

所在地

岡山市北区(旧御津町)御津河内
国道53号「宇垣信号」を西へと県道61号へ入り、道なりに2.5km程西進して左折すると左手に徳倉城の案内板が立ち搦手登山道がある。そこからさらに、200mほど西の方へ行くと川沿いに大手登山道(表示有)がある。
車は、国道53号線沿いの搦手口近くのゴミ集積場のスペースを拝借した。

所要時間

大手登城口から本丸まで20~25分

形状

山城(標高232m、比高170m)

現状・遺構等

【現状】 山林(県指定史跡)
【遺構等】 曲輪、土塁、石塁、石垣、空堀(堀切、竪堀)、井戸、説明板、遺構案内板

満足度

★★★★

訪城日

2012/01/08

歴史等

太平記に「康安2年(1362)に、備中国守護高師秀が山名勢に攻められて徳倉城へ退いた」とあるが信憑性に欠け、徳倉城の築城時期は不明である。
徳倉城が、城砦として存在したのは戦国期に入ってからで、備前の守護代金川城主松田元隆(元澄)の四男元資(一説では三男親秀)が文明8年(1476)には居城していたといわれている。
元隆の子で松田家中興の祖・元成の代に金川城が小戦国大名の居城として整備された段階で、徳倉城も周辺を固める出城とされ、松田氏の重臣宇垣氏が代々居城した。
しかし、永禄11年(1568)、宇喜多直秀により松田氏が滅ぼされると、直秀の寵臣遠藤河内守が徳倉城主になった。
宇喜多氏が備前をほぼ平定した後、遠藤河内守は徳倉城に城番を置いて岡山城に移った。
慶長5年(1600)の合戦で宇喜多氏が没落し、小早川秀秋が備前国主になり、この頃に徳倉城は廃城となった。
『「現地説明板」、「「御津町郷土歴史資料館パンフ」、「日本城郭大系13」等参照』

現況・登城記・感想等

徳倉城は、半独立的山(遠藤山)の山頂に築かれた連郭式山城で、上部建築物を除く城郭遺構がほぼ完存している。
縄張は、山頂に南北に細長い石垣構築の本丸を構え、北側に二の丸を設け、北東へ延びる尾根に塁段に曲輪が続いている。また、山腹部には出丸長郭や出丸なども設けている。
徳倉城への登城道は、大手道と搦手道があり、私は大手道を登り、搦手道を降りてきた。
大手道は、それなりに整備はされているものの、所々で見失いそうになる道だが、要所要所に誘導杭があるので間違えることはないだろう。
当城の最大の見どころは、何と言っても、山頂の本丸周囲、特に本丸虎口周辺の高石垣だろう。結構、険しい登城道を登ってきても、この石垣群を見ると疲れも吹っ飛んでしまうほどだ。
また、本丸南側には防御を堅固なものにしている石塁も良好に残っている。
搦手道沿いに山裾へと数百mも延びる竪堀も見事だ。
(2012/01/08登城して)

ギャラリー

徳倉城鳥瞰図(現地配置パンフレットより)
徳倉城鳥瞰図

徳倉城平面略図(現地配置パンフレットより)
徳倉城平面図

【登城記】
登城道は、大手道と搦手道があり、私は大手道を登り、搦手道を降りてきた。
大手道案内板
国道53号「宇垣信号」沿いに立つ徳倉城の説明板(
搦手登山口)のところから、200mほど西の方へ行くと川沿いに大手道「徳蔵城本丸登山道」の案内板(左写真)がある。そこを表示に従って入って行くと、また左手案内板(右写真)があるので、そこから山中へ入って行く。
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大手登城道
大手道は、それなりに整備はされているものの、所々で見失いそうになる道だが、有難いことに、要所要所に誘導杭があるので間違えることはないだろう。
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堀切
登り始めて8分ほどで、堀切へ出る。「堀切」との案内板があるが、この堀切、どうみても浅くて、堀切としての役割は果たして・・・? 本丸へは、ここを右に曲がり、出丸は左へ曲がる(案内板有り)。
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出丸へ
まずは、出丸へ向かうが、こちらは、ほとんど整備はされておらず、強烈な藪を掻き分けて入って行くことになる。
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出丸周囲の急崖(切岸?)
何とか先端部まで辿り着き、周囲下を見ると、急崖(削り取られた切岸だろうか?)になっており、地形的には出丸であったというのは分かるが・・・( ̄ー ̄;。
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長郭(出丸長郭)
堀切まで戻り、本丸へ向かうと3~4分ほどで細長~い「長郭」へ出る。案内板には「出丸長郭」とある。
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堀切
長郭の先には堀切が設けられている。こちらの堀切は、それなりに深いが、ちょっと幅が広すぎるような・・・?
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大手段曲輪群
堀切から8分ほど進むと、北東側尾根に構築された階段状の腰曲輪群が現れる。各曲輪は10~15m四方ほどで、高さ7-8mの切岸で区画されている。この辺りから、石積みが散見されるようになる。
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二の丸下の石垣
段曲輪の最上段が二の丸である。二の丸は石垣で固められていたようだ。
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二の丸
階段を登ると二の丸へ出る。正面奥上が本丸。
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井戸跡
二の丸には石組みの井戸が残っている。井戸は、今も湧き出ているのか、水が溜まっていた。
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本丸石垣が見えてくる
二の丸跡に立つ誘導杭に従って、左へ進むと、目の前に本丸の石垣が現れる。右斜面には大きな石が転がっているので見上げると、そこにも木々の隙間から石垣が見える。
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本丸北部東面の石垣
右手斜面を登っていき写真を・・・。本丸北部東面の石垣で、下から見上げる姿がかっこいい(*^_^*)。
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本丸へ
斜面から降りて、先程正面に見えた石垣の写真を・・・。正面左奥の石垣もかっこいいが、逆光で・・・(/。ヽ)。本丸へは、石垣の手前を右へ鋭角に曲がる。
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本丸虎口下の石垣
右へ曲がると、これまた素晴らしい石垣が現れたw(*゚o゚*)w。 結構、険しい登城道での疲れも、これで吹っ飛ぶ(*^_^*)
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本丸虎口へ
本丸へは、さらにもう一度鋭角に曲がるようになっている。枡形にはなっていないものの、かなり厳重な防御になっている。それにしても、この石垣の光景は素晴らしい(*^_^*)。
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本丸南側の石塁
本丸に上がり、南の方を見ると、これまた見事な石垣が見えた(*^_^*)。本丸南側の防御を堅固なものにしている石塁だ。これまた、強烈な逆光で・・・。
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石塁上から本丸を
本丸は、南側が広く、南北約90m×東西最大幅約30mほどの多角形である。
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本丸中央の妙見宮
本丸中央部は高さ1mほどの土壇があり、この土壇で北と南部分と区画されている。土壇の上には妙見宮が祀られ、周囲に一部石積みが認められる。往時は、当城中心の建物が建っていたのだろうか?
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礎石?
妙見宮の前(北)には、建物の礎石のように石が並んでいるが、往時の建物の礎石?、或いは、後に置かれた建物平面表示を表す石?
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竪堀
下りは、搦手道から降りた。搦手道沿いに、城の南側の山とを断ち切る見事な竪堀が山裾へ数百mも延びている。
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