摂津 兵庫城(神戸市)

兵庫港キャナルプロムナード沿いに立つ石碑と説明板

荒木村重謀反の際の花隈城攻めの功で池田恒興が築いた海城

所在地

兵庫県神戸市兵庫区切戸町
清盛塚の2~300mほど北、新川運河プロムナード沿いに石碑と説明板が立つ

形状

平城(海城)

現状・遺構等

【現状】 市街地(倉庫、宅地等)
【遺構等】 石碑、説明板のみ

満足度

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訪城日

2012/01/07

歴史等

天正6年(1578)に伊丹有岡城主・荒木村重が織田信長に叛き、織田の武将池田恒興・輝政(のちの姫路城主)父子が村重の支城花隈城を攻撃し、1年4ヶ月に及ぶ攻防の末 同8年(1580)に花隈城を攻略した。
恒興父子は、この功により、信長から西摂津のほとんどを与えられた。恒興は、自らが落城させた花隈城に入らず、同9年(1581)平清盛以来の大きな湊であった兵庫津に、花隈城の石材などを移し築城した。
天正11年(1583)、恒興は美濃大垣城へと移封となり、兵庫の地は秀吉の直轄地となり、城としての役割は僅か2年で終わった。その後は、片桐且元が代官として支配し、兵庫城も片桐陣屋と称されていた。
元和元年(1615)に豊臣氏が滅亡すると尼崎藩領となり、兵庫陣屋と呼ばれたが、明和6年(1769)に幕府直轄領となり、勤番所が置かれて明治に至った。
明治新政府は、慶応4年(1868年同年9月8日明治改元2月22日)に、この城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが、5月23日に兵庫県庁となった。その後、県庁は同年9月18日移転した。
明治7年(1874)、兵庫港が大改修され、兵庫新川運河が造られたため、兵庫城跡は破壊されて運河の下に沈んだ。
『「現地説明板」、「ひょうごの城(神戸新聞総合出版センター刊)」より』

現況・登城記・感想等

国際港・神戸港の西にある兵庫港(現在は神戸港域の一画)は、古代から江戸時代まで良港として栄えた大和田の泊り、兵庫津の跡で、背後には平清盛が遷都した福原京がある。
兵庫城は、僅か2年の短い間であったが、そんな地に築かれていたという。湊川の支流が縦横に走って天然の堀を形成し、前面に湊を持つ「海城」だったであろう。
明治以降の兵庫港の大改修や、大都市神戸の市街地化により、建物は勿論、石垣や土塁等の遺構は全く姿を消してしまった。
しかし、往時と地形も変わってしまったとはいえ、海城の面影が縦横に延びる広い運河に窺い知ることができるような・・・。
(2012/01/07訪れて)

ギャラリー

新川運河プロムナード沿いに立つ兵庫城跡石碑と説明板
明治以降の兵庫港の大改修や、大都市神戸の市街地化により、兵庫城の遺構はことごとく失われ、今は、新川運河プロムナード沿いに「兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地」の石碑と説明板が立つのみである。
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新川運河
兵庫港大改修で新川運河が造られたために、兵庫城跡は破壊されて運河の下に沈み、往時と地形も変わってしまったとはいえ、往時の海城の面影が新川運河をはじめとする縦横に延びる広い運河に窺い知ることができるような・・・。
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