二の丸南側の大堀切
赤松氏一族衣笠氏の城、秀吉による三木城攻めの時に落城、見事な堀切が残る
読み方
はしたにじょう
別名
衣笠城、寺谷城
所在地
兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷
【アクセス】
県道65号と県道52号が交差する「福谷東信号」から県道52号を1km程北東へ進むと左手に「満福寺」が見えてくる(ナビにも出てくると思います)。このお寺とその背後の山が城跡です。
形状
丘城(標高140m、比高約40m)
現状・遺構等
【現状】 満福寺、山林
【遺構等】 曲輪、土塁、櫓台、空堀、堀切、石碑、城主供養碑、説明板、各遺構説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2012/01/07
歴史等
端谷城が築かれた詳細な時期は不明であるが、鎌倉時代中期の文応年間(1260~61)頃に、赤松氏一族の衣笠氏が櫨谷庄を領し、赤松氏が勢力を伸ばすとともに国人領主になっていき、端谷城を築いたと考えられる。
衣笠氏は、室町時代には赤松氏に属し、応仁の乱(1467~77)などで、衣笠祐盛は赤松政則に仕えて活躍した。その子範弘の頃は「播州錯乱」と呼ばれる下剋上の内乱の最中であったが、外圧に耐えて、全盛期を迎えている。
そして、勢力拡大に伴い櫨谷の谷筋に池谷城、福谷城、城ケ市城、城ケ谷砦など衣笠一族のものと考えられる城や砦を築いている。
永正17年(1520)、一族の浦上村宗が勢力を伸ばし、遂には主君の播磨守護職赤松義村を隠居させてしまった。義村は、赤松の勢いを回復しようと将軍足利義澄から預かっていた若君の亀王丸(後の12代将軍義晴)を奉じて密かに置塩城を抜け出し、範弘を頼って端谷城へ入ったという。
戦国期に入り、三木城の別所氏が勢力を伸ばし、やがて東播磨の覇者となった時、端谷城もその支城の役目を果たすようになった。
そして、範弘の子範景の頃になると、戦乱は益々激しくなり、天文23年(1554)には三好長慶との戦いで別所方七ケ城の一つとして落城した。
天正6年(1578)、羽柴秀吉の三木城攻めが開始され、範景は、淡河城の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに三木城主別所長治に与したが、織田信澄・明石則実(枝吉城主)らによって攻められ、籠城戦の末、三木城落城後の同8年(1580)2月25日落城し、廃城となった。
『「ひょうごの城(神戸新聞総合出版センター刊)」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
端谷城は、六甲山系から延びる標高約140mの丘陵が舌状に張り出した突端に築かれ、南は櫨谷川、東は北谷川、西は西の谷川が流れ、天然の水堀を形成している。
縄張は、南側から三の丸~二の丸~本丸と階段状に曲輪を配している。
北側最高所にある本丸は、東西約50m、南北約20~25mの不正方形で、北西隅に物見台と思われる方形の土壇が2段に設置されている。
本丸・二の丸・西の壇の周囲には驚くほど巨大な空堀が設けられ、密集した木々の隙間から垣間見ることができるが、写真に撮っても分からないのが残念だ(;>_<;)。
本丸の南下には、東西約25m、南北約65mと当城最大の二の丸が置かれている。二の丸の東・西・南側は削り込まれた急斜面(切岸)になっており、南側の三の丸との間には見事な堀切が設けられている。二の丸の北西下には、2段からなる「西の壇」も配している。
二の丸の南下は、今は万福寺が建っているが、三の丸跡である。ここに、最後の城主衣笠範景の顕彰碑がある。
往時は、さらに南下へと、城主居館、侍屋敷へと続いていたようだ。
登城前は、城跡は寺になっているし、ほとんど期待もしていなかったが、寺の裏側の二の丸から本丸にかけては見事に往時の姿が残っており、小規模ながら見応え充分な城址で満足した。中でも、二の丸南下の大堀切と本丸背後の巨大空堀は見事だ(*^_^*)。
(2012/01/07登城して)
ギャラリー
端谷城縄張図(現地説明板より)
大手道
山麓にある寺谷公会堂の駐車場を拝借して、北側の丘の上にある満福寺へ向かうと堀切道のようなところへ出た。これが大手道らしいのだが、この堀切は大手口の跡? 写真正面奥の丘が端谷城址(満福寺)。
満福寺(三の丸跡)へ向かう
大手道を真っ直ぐ北へ向かうと、満福寺(城跡下)へ出る。そこに、「満福寺」の石碑とともに、「端谷城跡」の石碑が並んで立っている。
三の丸跡に建つ満福寺と最後の城主衣笠範景の顕彰碑
三の丸跡には満福寺が建ち、本堂の左手前には最後の城主衣笠範景の顕彰碑が建てられている。範景は父範弘と同様、領民に愛される名君で、秀吉軍により攻められた際には、領民も義によってともに籠城したと伝えられる。
二の丸下(二の丸・三の丸間)の堀切
お寺の裏へ廻ると、いきなり見事な堀切が現れる。ここから見上げる二の丸切岸(写真右側)は頭上からのすごい威圧感がある。攻め手も、この切岸に出遭ったら気も萎えてしまうだろう。。
二の丸
二の丸は、当城最大の曲輪で、東西約25m、南北約65mある。正面奥に見える土塁上が本丸。
西の壇
二の丸の北西下には、2段からなる「西の壇」も配している。西側谷筋からの敵をはばむための防御的な施設であったと考えられ、発掘調査で瓦葺きの礎石建物や柵、塀などが見付かっているそうだ。
本丸
北側最高所にある本丸は、東西約50m、南北約20~25mの不正方形で、北西隅(写真左奥)に物見台と思われる方形の土壇が2段に設置されている。
物見台
本丸北側の空堀を覗きこむ
本丸・二の丸・西の壇の周囲を取り囲むように、驚くほど巨大な空堀が設けられている。本丸北側から下を覗いてみた。密集した木々の隙間から垣間見ると、深さはゆうに10mはあるだろう。取り敢えず、写真には撮ってみたが、その迫力を伝えられないのが残念だ(;>_<;)。