民主広場の方から眺めるワイマール宮殿
文豪ゲーテが宰相を務めたワイマール公国の宮殿
所在地
テューリンゲン州ワイマール(Weimar)
現状
美術館
歴史・現況等
ワイマール公国は、ザクセンから分裂した小さな国であった。日本では、一般に「ワイマール」と呼ぶが、ドイツ語読みからすれば
「ヴァイマール」が正しいだろう。
ワイマールと言えば、やはり「ゲーテ」である。フランクフルト生まれのゲーテは、1775年、26歳の時に、ワイマール公カール・
アウグストにワイマール公国に招聘され、ブレーンとして1832年に没するまでの50年以上、ここで一生を暮らすことになる。
従って、ワーマールにはゲーテの家や別荘、銅像等々ゲーテゆかりのものも多い。
ワイマール宮殿(Stadtschloss)は、16世紀に建てられたが、1774年の火災で、
塔だけを残して焼失したが1803年に再建された。
再建に当たっては、当時、建築委員のひとりであったゲーテの意見が、かなり影響を与えたという。現在、内部は美術館になっており、
宗教改革時代から20世紀初頭までのコレクションを展示している。
ただ、今回のツアーに入城予定はなく、マルクト市場での僅かな自由時間を利用して、何とか写真だけ撮ってきた(苦笑)。
(2010/09/13)
ギャラリー
【ゲーテゆかりの場所】
ワイマールと言えば、やはり「ゲーテ」である。フランクフルト生まれのゲーテは、1775年、26歳の時に、
ワイマール公カール・アウグストにワイマール公国に招聘され、ブレーンとして1832年に没するまでの50年以上、
ここで一生を暮らすことになる。従って、ワーマールにはゲーテの家や別荘、銅像等々ゲーテゆかりのものも多い。
(国民劇場の前のゲーテとシラー像)
国民劇場(Nationaltheater)の前で手を取り合って立つ像は、ゲーテとシラーの像で、
1857年の作である。国民劇場は、シラーの「ウイリアム・テル」やゲーテの「ファウスト」、ワグナーの「ローエングリン」などが初演され、
リストやシューマン、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスもここで活躍した。劇場は何度か焼失し、現在の姿となったのは1907のこと。
その後1919年にワイマール憲法がこの劇場で採択されるなど、ワイマールの芸術と政治の舞台として、重要な役割を果たしてきた。
(ゲーテの家)
1775年ワイマール公カール・アウグストに招かれた26歳のゲーテは、この町に移り住み宰相となる。
1832年、82歳のゲーテは、ここで有名な「もっと光を」の言葉を残し世を去った。この家は現在ゲーテ資料館になっていて、「ファウスト」
を執筆した部屋、最期をむかえた部屋などを見学することができる。
(ゲーテの山荘)
宮殿の裏手、イルム川沿いの広大な緑地は、ワイマール公の猟場だった。その中にポツンと見える、
白い可愛い家がゲーテの別荘である。
(ゲーテの愛人「シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人の館」)
公国の役人の妻で才色兼備のシャルロッテ・フォン・シュタインらとの交際で、ゲーテの知的生活は、
ますます広がりをもつことになった。彼女の存在は、ゲーテのほかシラー、ヘルダーなど同時代のヴァイマルの文人たちに大きな影響を与えた。
彼女自身も文人として知られていた。1775年、ゲーテがカール・アウグスト公の導きによりヴァイマールを訪れ、
程なくして彼女を知ることになる。ゲーテはたちまち彼女の虜になり、シュタイン夫人と親密に交わるようになった。
ゲーテは多くの詩や手紙などを彼女に送り続けていた。シュタイン夫人との交流はゲーテを人間的にも成長させ、
かつ文学的にはゲーテを古典主義へと導く重要な要素となっていった。
(シラーの家)
ゲーテの招きでワイマールにやって来たシラーが、1802年から亡くなる1805年まで住んだ家で、ゲーテの家と較べるとかなり質素だ。ここで、
有名な「ウイリアム・テル」を執筆した。