スーパー堤防の上から見る本丸跡(手前の林)と模擬三階櫓
後北条氏の北関東攻略拠点の地、江戸時代には利根川水運の要衝の地
所在地
千葉県野田市関宿台町
形状
平城
現状・遺構等
遺構:曲輪跡(本丸の一部)、移築現存門(埋門:市内小林家に、薬医門:逆井戸城址に) 、本丸御殿の一部(市内実相寺に客殿として移築)、模擬御三階櫓(関宿城博物館)
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2006/08/14
歴史等
関宿城は長禄元年(1457)、梁田満助によって、茨城県総和町より現在の地に築城されたのが始まりとされている。
梁田氏の支配は満助から持助まで6代続いていたが、やがて関宿も戦国の動乱に巻き込まれ、北条氏との激しい戦いののちに、
ついに北条氏の手に落ちてしまう。
その後、豊臣・徳川の連合軍の関東攻めにあい、北条が守る関宿城は連合軍の手に落ち、天正18年(1590)、徳川家康関東入封の折り、
家康の実弟・松平康元が関宿城に2万石で入城する。以後、城主は、松平、小笠原、北条、牧野、板倉、久世、牧野、
久世とめまぐるしく城主が交代するが、宝永2年(1705)、久世重之以後明治に至るまで代々久世氏の治める領地となった。
そして、明治8年末には関宿城は全て破却された。現在、城地として残っているのは全体の一部で、約3分の2は、
明治以後何回となく繰り返されてきた河川改修により、堤防の下に埋もれてしまっている。
『本丸跡説明板より要約』
現況・登城記・感想等
非常に平坦なのどかな水郷地帯に、江戸城富士見櫓を模した、
派手な模擬御三階櫓(関宿城博物館)が見える。天守展望台から見える、四方の田園地帯や利根川・江戸川の眺望は、
日本の風景の原点を見ている様な感じがする。
本丸跡はその600mほど南のスーパー堤防の下に、僅かに石碑とともに残っている。今では、
あまりにも地形が変わってしまっているのであろう。本当にこんな低い所に本丸があったのかと不思議に思えるような場所である。
(2006/08/14)
ギャラリー
関宿城遠景
案山子がいっぱい立つ典型的な水郷地帯に、派手な模擬御三階櫓(天守)の博物館がいやでも目立つ。
模擬御三階櫓(関宿城博物館)
天守閣については、古記録に「寛文十一年辛亥世喜宿・・・公儀御願相済富士見櫓之形以建直ル・・・
(カンブン11ネンカノトイセキヤド・・・コウギオンネガイアイスミフジミオンヤグラノカタチヲモッテナオル・・・)」とあり、
江戸城の富士見櫓を模して寛文11年(1671)に再建され、明治7年(1874)頃取り壊された。
この記録に基づき皇居内にある富士見櫓を参考に再現された。
天守展望台からの眺望
四方の田園地帯や利根川・江戸川の眺望は、日本の風景の原点を見ている様な感じがする。
㊧利根川の満々たる水が・・・、㊨利根川の向こうに筑波山(左奥)
スーパー堤防の上から見る本丸跡(手前の林)と模擬三階櫓
三階櫓から600mほど南のスーパー堤防の下に、僅かに石碑とともに残っている。今では、
明治以降の河川改修により大半が河川やスーパー堤防の一部になっている。あまりにも地形が変わってしまっており、
本当にこんな低い所に本丸があったのかと不思議に思えるような場所である。
本丸跡に建つ「関宿城跡」の石碑(左)と本丸跡(右)
現存本丸御殿の一部(市内実相寺の客殿として移築)
宝暦6年(1709)に建造されたもので、千葉県内では本丸御殿が現存するのはここだけであるが、
アルミサッシなどが使われて改修されているのが気になった。尤も、昇殿部(上がり口)の梁はなかなかのものである。また、
そのガラスに関宿城主・久世家の定紋(丸に堅鷹の羽2本)が付いていた。
現存移築埋門(四つ足門)
明治8年、関宿城の破却と同時に、ここ(小林家)に移築されたものである。正式には、
関宿城内にあった大きな門(佐竹門、辰の門)の間にあった埋門で、特に名称はなく、通称「四つ足門」と呼ばれている。現在は、15.
3mほど移築当時のままの状態で残されている。(東高野バス停近くの旧日光東往還から少し入ったところにあり、大切に保存されている)
現存移築埋門(四つ足門)
左写真は正面から。右写真は、鬼瓦に関宿城主・久世家の定紋(丸に堅鷹の羽2本)が確認される。
現存移築薬医門
明治6年廃城になったときに民間に払い下げられたものを逆井城跡
(茨城県坂東市逆井)に移築