水堀越しに再現された井楼櫓と二層櫓を
後北条氏の佐竹・結城・多賀谷勢との国境ラインの拠点の城
別名
飯沼城
所在地
茨城県坂東市逆井
形状
平城
現状・遺構等
【遺構】曲輪、土塁、空堀、虎口、横矢掛り
【再現】物見櫓、平櫓、井楼櫓、櫓門、木橋
【移築】城門、観音堂
【模擬】主殿、木橋、塀
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/06/25
歴史等
永禄年間(1560年代)から、北条氏は下総侵攻を本格化し、古河公方勢力下にあった今日の茨城県西部地方を征圧した。
古河と土浦の中間に南北30km、幅わずか1kmの湖が横たわっていた。この飯沼湖こそ、後北条氏と佐竹・結城・
多賀谷勢との国境ラインであった。
後北条氏はこの飯沼湖畔の逆井氏が築城した古城跡に、軍事拠点の大城郭を天正5年(1577)10月より築城し始めた。これが逆井城
(さかさいじょう)である。
飯沼湖の中央地点でカギに湖が曲がる所で、城域は東西550m、南北400mで、城の北は湖が洗い、西は入江で湊であった蓮沼
(現在は埋立て)が入り込んでいた。
城内は比高二重土塁と呼ばれる空堀が三重にめぐり、曲輪と呼ぶ各区画のコーナーや屈曲(横矢掛り)が要所要所に設けられた。
築城にあたった城代の北条氏繁は、自らの本拠地・藤沢より大鋸引ら職人を呼び寄せて、本格的な建造物工事にあたった。
城の守備には、忍者の風間孫右衛門(ふうままごえもん)ら忍者集団も大量に投入された。発掘調査では、忍者の夜間襲撃に備えて、
松明を空堀に投げ入れたり、空堀底で夜中に焚火をしたあとが、スミと焼土層の大量出土で確認された。
北条氏とともに隆盛を究めた逆井城であるが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐に伴い廃城となった。
『参照:真説・戦国北条五代(学習研究社刊)、パンフレット』
現況・登城記・感想等
平将門の郷(現坂東市)は真ったいらで広かった。逆井城の復元工事は、昭和30年代に流行った、よくある模擬城建造と違い、
数次にわたる発掘調査の成果を踏まえ、戦国期の城郭の面影を偲ばせてくれる素晴らしいものであった。
この城の最大の特徴は複雑に配置された空堀と土塁であろう。また、その空堀と土塁がよく残っていて嬉しい。非常に見応えのある城跡であった。
(2006/06/25登城して)
ギャラリー
逆井城絵図(パンフより)
二層櫓(右側に大手橋と城門、左側に平櫓と井楼櫓)
この二層櫓は、戦国時代末期の時代背景をもとに、外観二層の姿を復元したものである。櫓は武器・
食糧の貯蔵と防御とを目的として設けられた。
模擬冠木門
城の入口に随分大きな模擬冠門が建っている。
大手橋
一本支柱構造になっている。
作り物の長柄槍(二層櫓内に保管)
後北条氏の武器の主流は2間半長柄槍で、穂先が加わると6m弱の長さである。
二層櫓二階から井楼矢倉(奥)・平櫓(手前)
と右に主殿を
井楼櫓
櫓は、
敵の動静の監視と自軍を把握するためのもので、この役割が発展・大規模化したものが近世城郭の天守閣となる。
井楼櫓からの眺望(かつての飯沼方面)
火の見櫓程度の低い櫓であるが、かなり遠くまで見える。平将門の郷は真ったいらで広かった。
関宿城の城門
薬医門で、
明治6年廃城となった関宿城の一部が民間に払い下げられたものを移築。
主殿
茨城県牛堀町の大台城遺跡より出土した主殿遺構を参考に建築されたもので、
逆井城と同時代に存在していたものである。
観音堂
大安寺(岩井市)
にあったものを移築したもの。天正16年(1588)建立時の棟札が現存している。
東二曲輪から一曲輪(本丸)
への櫓門と橋
この櫓門と橋は発掘調査の成果をもとに復元されたもので、遺構保存のため約150mずらされている。
一曲輪(本丸)
蓮沼方面の西外濠
濠にはいっぱいの蓮の花が咲いていた。
東二曲輪跡
かなり広い曲輪で、
周りは比高二重土塁で囲まれている。
横矢掛り
比高二重土塁
逆井城の堀幅は12~13m、
部分的に8mの所がある。後北条氏の武器の主流は2間半長柄槍で、穂先が加わると6m弱の長さである。
戦闘になると腕の長さが加算されるから、逆井城の堀幅は長柄槍が触れ合う戦闘距離である。8mの堀幅部分は、敵を集中させて、
守備兵力の分散を防ぐ個所である。
鐘掘り池
天文5年(1536)、
ときの逆井城主逆井常繁は北条軍に破れた。この時、城主の奥方(姫とも云われる)
は先祖代々伝わる釣鐘を被ってこの池に飛び込み自殺したと云われている。
【古城】
北条氏に滅ぼされたと伝えられる逆井氏の古城跡の一部。
各曲輪は複雑な空堀で仕切られているが、どれも狭い。