高橋紹運(立花宗茂の実の父)以下籠城兵763名が壮烈な最期を遂げた城
所在地
福岡県太宰府市観世音寺
形状
山城(281m)
現状・遺構
現状:山林
遺構:曲輪、堀切、土塁
満足度(10点満点)
4点
訪城日
2007/02/09
歴史等
岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)、宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種(あきたね)によって築かれた。やがて、鑑種は主君・
大友宗麟の傲慢な振る舞いに憤り反旗を翻したために城を追われ、代って吉弘鎮理(後の名将高橋紹運)が城主となった。
天正14年(1586)6月半ば、九州制覇を目指す島津義久の大軍団が、東西2コースで北上を開始した。東コースは島津家久(義久の弟)
以下3万余が日向から豊後・豊前へと侵攻。西コースは島津忠長(同従弟)以下2万余が、肥後・筑後・筑前を攻めて豊前へ進出。両軍合流して、
西下が予想される豊臣秀吉軍を水際で撃退する目算であった。
西コース軍は、たちまち肥後・筑後を席捲し、早くも7月12日、筑前大宰府へなだれ込んだ。次の目標は、
筑前における大友方の重要戦略拠点である岩屋城・宝満城・立花城である。怒涛の進撃で意気上がる島津軍は、
途中参陣者も含めて5万にふくれあがった大軍勢で、まず岩屋城を囲んだ。岩屋城を守る高橋紹運は、衰勢の大友氏を見限る武将が多い中、
立花道雪とともに主家に対する節義を貫き通し、その屋台骨を支え続けてきた。しかし、守備兵は紹運以下わずか763名であった。
実の息子である立花城主・立花統虎(後の宗茂)は「岩屋城は、大軍の攻撃に耐えうる堅城にあらず。宝満城か立花城にお移り願いたい」と、
その無謀な籠城を諫めた。しかし紹運は「宝満城は要害堅固だが、他域兵との共闘は人の和を欠くおそれがある。
立花城に篭っては父子が同時に討死にする危険がある」とし、同意しなかった。
紹運は、三城に兵力を分散して戦うことで時間稼ぎをし、秀吉の援軍を待とうとしていたのである。7月13日、
島津忠長は使者を遣わし降伏を勧告するが拒絶し、島津の大軍勢の猛攻が始まったが、少数で守る籠城軍の必死の抵抗で壮絶な攻防戦となった。
しかし、開戦以来10日余りたった籠城兵は、連日の死闘に疲労は極限に達し、ついに26日外郭が陥落した。
そして翌27日にはついに城の中枢部に迫り、本丸へと殺到してきた。城兵は紹運以下わずか50名余りとなった。
役目を果たした紹運は割腹した。残る将士も後を追った。籠城兵763名、壮烈な全員玉砕であった。一方の島津軍の死者は3,000名、
負傷者は1,500名といわれる。
その後、宝満城を8月5日に落とし、立花城を包囲したものの、立花城は岩屋城よりも要害堅固であり、守備も多く、
なかなか開城させることが出来ない。そして、とうとう秀吉軍が豊前に上陸し、8月23日、島津軍は立花城下から撤退を開始した。
2週間を費した戦いにより、島津義久の九州制覇の大望は潰え去ったのである。
『参照:歴史群像シリーズ⑫戦国九州軍記(学研刊)、現地説明板』
現況・登城記・感想等
岩屋城は、かの立花宗茂の実の父・高橋紹運の壮絶な死を遂げた籠城戦の舞台である。以前からどんな所か、
一度是非登城してみたいと思っていた。
古代の城「大野城」の四王寺山頂上への道路を山の8分ほど登った所に岩屋城跡への登城道がある。駐車場はないものの、
道が一部広くなっており、車が1~2台ほど置ける。その登城道を50mほど歩いて登ると本丸に出る。
本丸には、猛将・高橋紹運に相応しい、何とも印象的な「嗚呼壮烈岩屋城址」の石碑が建てられていた。本丸はあまり広くないというよりも、
かなり狭い。
本丸の隅に「岩屋山」と書かれた看板が建っているやや高い部分があった。岩屋城には天守閣があったとも云われているが、
それがその天守台跡であろうか?それにしてはあまりにも小さいが?かといって、物見台には場所がそぐわないし・・・。
本丸の高さは四王寺山の中腹とはいいながら、281mの高さにあり、本丸からの眺望は素晴らしい(素晴らしいようだ?)。尤も、
当日は曇時々霧雨で、眼下に見える景色も、残念ながら霞んでしか見えなかった。本来ならば、
背振山方面へ続いている水城が眼下にはっきりと見えるはずなのに!・・・
道路に戻って、今度はその下の方へ降りていくと、二の丸跡に紹運とその武将の立派な墓があった。そこから下には、
大石垣が残っているようなので降りていったが、分からなかった。その道は水城へ繋がる道になっているようであった。
この城は、遺構そのものはほとんど残っていないが、その歴史と本丸からの眺望が主役である。近くに住んでいたら、
本丸からの眺望を堪能すべく、天気の良い日に弁当でも持って何度でも訪ねたい城址である。
(2007/02/09登城して)
ギャラリー
岩屋城本丸跡への登城道入口
(本丸への登城道の階段はきれいに整備されている)
本丸跡(本丸はあまり広くないというよりも、かなり狭い。)
本丸に建つ石碑
本丸には、猛将・高橋紹運に相応しい、何とも印象的な「嗚呼壮烈岩屋城址」の石碑が建てられていた。
本丸隅にある天守台跡?
本丸の隅に「岩屋山」と書かれた看板が建っているやや高い部分があった。
岩屋城には天守閣があったとも云われているが、それがその天守台跡であろうか?それにしてはあまりにも小さいが?かといって、
物見台には場所がそぐわないし・・・。
本丸下の腰曲輪
本丸からの眺望
本丸の高さは四王寺山の中腹とはいいながら、281mの高さにあり、本丸からの眺望は素晴らしい
(素晴らしいようだ?)。尤も、当日は曇時々霧雨で、眼下に見える景色も、残念ながら霞んでしか見えなかった。
二の丸跡(奥の見えるのが高橋紹運とその武将の墓)
道路に戻って、今度はその下の方へ降りていくと、二の丸跡に紹運とその武将の立派な墓があった。
高橋紹運とその武将の墓
高橋紹運は天正14年(1586)北上した島津5万の軍と戦い、城兵763名と共に玉砕した。39歳であった。
紹運以下勇士たちここ二の丸址に眠る。
辞世歌「流れての末の世遠く埋もれぬ名をや岩屋の苔の下水」 (現地説明板より)
二の丸横の竪堀?(自然の沢かもしれないが、
この辺りは人工的に掘られているような感じであった)
大石垣?
説明板の案内図によると、二の丸から下の方へ降りて行った所に大石垣が残っているようであったので、
かなり下まで降りて行ったが分からなかった。このかなり大きな石は細工されているようであった。また、この上に大きな石が重なっていたが、
自然のような感じであり、分からなかった。