信濃 高梨氏館(中野市)

信濃源氏の有力武士団高梨氏の居館

別名

中野小館

所在地

長野県中野市小舘1069-1ほか

形状

現状・遺構

現状:高梨氏館跡公園
遺構等:曲輪、土塁、空堀、建物跡、庭園跡、井戸、石碑、説明板等

満足度(10点満点)

5点

訪城日

2007/10/29

歴史等

高梨氏館は、平安時代末期に始まる頼季流信濃源氏の有力武士団である高梨氏の築造によるものと推測される。
高梨氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて北信地方で勢力を拡大し、室町時代後期までには中野地方を完全に支配下に置いたとみられ、 この勢力拡大の過程の中で、当地に本拠地を構えたものと考えられる。
室町時代末期、甲斐武田氏と越後上杉氏の抗争の中、高梨氏はかねてから親交の深かった上杉氏を頼り、 越後に一時退去するなどの紆余曲折を経た後、慶長3年(1598)に上杉氏が会津に転封されると、共に会津へ移った。 それに伴い館も廃館となったと考えられる。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

高梨氏館は、方形単郭で、周囲に空堀と土塁を廻らした典型的な中世豪族の居館様式である。
公園として綺麗に整備され、しかも発掘された遺構も良好に復元整備されて残され、説明板などもしっかりしておりありがたい。また、 建物群の位置や枯山水の庭園が復元され、往時の高梨氏の高い文化生活が偲ばれる。
東の方には詰の城・鴨ケ嶽城が聳えている。この後登城する予定だが、結構高くキツイかも!?
(2007/10/29登城して)

ギャラリー

高梨氏館の図(現地説明板より)
高梨氏館見取図

南側の空堀と土塁
見取図によると、奥の木橋や手前の土橋はなかったようだ。
高梨氏館南堀

土塁断面図(現地説明板より)
土塁調査の結果、土塁の中に漆喰で固められた築地塀が埋もれていた。 このことから土塁が造られる以前に築地塀が存在していたことが明らかになった。
高梨氏館土塁断面図

西側の堀
見取図によると、この西側には虎口が2ヶ所あったようだ。建物群の場所から考えても、 こちら側に大手口があったのであろうか?
高梨氏館西堀

東側堀
この東側の堀は、他より多少幅も狭く、深さも浅い。

高梨氏館東堀

曲輪内
東の方には詰の城・鴨ケ嶽城が聳えている。この後登城する予定だが、結構高くキツイかも!?

建物群跡
曲輪内には8棟の建物が建っていた。5棟が礎石建物で、3棟が掘立柱建物である。 東側土塁に沿って建つ3棟の建物(写真右側)はすべて総柱建物で倉庫として建てられていたようだ。

建物復元礎石と石組溝・貯水桝
建物と建物の間には石組溝がめぐり、石組みの貯水桝(写真手前)なども見られる。

枯山水庭園の池と井戸跡
礎石建物のうち主殿と考えられる建物跡(井戸の奥)は、南側の庭園(写真左奥)に臨んで建っている。 庭園は土塁を背景として左奥に滝石組、右に大きな立石わ配置し、その前面に中島を擁する池が造られている。 当初の池には滝から水が落されていたが、ほどなく滝へ続く導水路は埋められ、枯山水へと改められたようであるとのこと。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント