三崎中学校の南側(馬出跡)に立つ説明板と石碑
三浦氏本拠新井城の支城、後に後北条氏の三浦半島防衛の根拠地に
所在地
神奈川県三浦市城山町
形状
山城(水軍城)
現状・遺構等
現状:市街地(市役所・体育館・三崎中学校他)
遺構等:土塁、堀切、土橋、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2007/09/27
歴史等
三崎城の築城年月は不祥である。
戦国初期、伊豆韮山城を本拠とする伊勢新九郎
(北条早雲)が小田原城を奪取し、
永正9年(1512)相模の最大勢力・三浦義同の岡崎城を急襲しこれも奪取した。さらに義同は岡崎城から住吉城に逃れ立て籠もるが、
これも陥とされ、最後は新井城、
三崎城に篭城した。
義同は要害を頼りに三年間という長きにわたって新井城に籠城を続けるが、
永正13年(1516)7月11日、最後は兵糧も尽き果て城兵悉くが玉砕した。この時、三崎城もまた落城した。
その際囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れなお抵抗を続けたと云われる。
その頃、三浦氏は戦国の風雲に乗じ相模一円に領域を拡げていったが、三崎城は三浦一族累代の居城新井城の背後を守る重要な支城であるとともに水軍の根拠地でもあった云われている。
三崎城落城後、北条早雲は三浦氏に従っていた三崎10人衆を水軍として三崎城を根拠地として、三浦半島の海岸の防衛を命じた。その後、
後北条氏はこの城に5代にわたり兵を置いた。
しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉に攻められ後北条氏の滅亡にともない三崎城も廃城となった。
『「現地説明板」、「新井城説明板」等参照』
現況・登城記・感想等
三崎城址へは三浦市役所(城山町1-1)を目標に行くと分かり易い。市役所の駐車場に車を置かせてもらって廻った。
三崎城址は三浦市の市役所、体育館、中学校等の公共施設やお寺の中に埋もれてしまっていて、
城めぐりというよりも三浦市内散歩と云った方が合っているかもしれない。
まずは、市役所前の坂道を登って行くが、この辺りが大手口であったとのことである。左前方の切岸?の上には三崎中学校があり、
道路を挟んで反対側には体育館が建っているが、この体育館の辺りが本丸であったとのことである。道路端の中学校側には説明板(縄張図も)
と石碑が建っており、この辺りは馬出しがあったようで、その後ろ側が土塁のようになっているが、これは往時のものかどうかは分からない。
城郭の一番東奥の慰霊堂への参道入口には結構明確に土塁跡が残り、慰霊堂への手前には堀切と土橋跡が残っている。慰霊堂は小曲輪跡のようで、
切り立った崖の上にあり眺望が良い。出丸であったのであろうか。また物見台にもなっていたのであろうか?
市役所の西方には三崎小学校や本瑞寺があり、この辺りの道路は空堀の名残りであるのがよく分かる。
(2007/09/27登城して)
ギャラリー
大手口
市役所前の坂道を登って行くが、
この辺りが大手口であったとのことである。道路が屈曲していることからそれらしさが?!左前方の切岸?の上には三崎中学校があり、
道路を挟んで反対側には体育館(写真正面の赤い屋根)が建っているが、この体育館の辺りが本丸であったとのことである。
馬出し跡
道路端の中学校側には説明板
(縄張図も)と石碑が建っており、この辺りは馬出しがあったようで、その後ろ側が土塁のようになっているが、
これは往時のものかどうかは分からない。
慰霊堂参道入口の土塁
慰霊堂への参道入口には結構明確に、しかもかなり土塁跡が残っている。
慰霊堂手前の土塁
上写真を入ると、
曲輪を囲んだこの土塁の所に出る。
慰霊堂への土橋跡?
慰霊堂への手前には堀切と土橋跡が残っている。
土橋両側の堀切
上写真の土橋両側の堀切跡。
右の堀切は海へと落ち込んでいる。
慰霊堂からの眺望
慰霊堂は小曲輪跡のようで、切り立った崖の上にあり眺望が良い。海側も木々の間から、
真下に海や船がよく見えたが、写真にはよく写らなかったのでパス。この曲輪は、出丸であったのであろうか?
また物見台にもなっていたのであろうか?
空堀跡の道路
市役所の西方には三崎小学校
(写真右の崖上)や本瑞寺(写真正面の崖上)があり、この辺りの道路は空堀の名残りであるのがよく分かる。