上野 吉井陣屋(吉井町)

移築復元された陣屋表門

京都鷹司家出の松平氏の陣屋

別名

矢田陣屋

所在地

群馬県多野郡吉井町吉井(表門は285番地)

形状

陣屋

現状・遺構等

現状:市街地
遺構等:表門、石塁(春日神社跡)、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2007/10/04

歴史等

天正18年(1590)、三河国田峯城主菅沼定利は徳川家康の関東入部に伴って、 上野国多胡郡吉井周辺において2万石を与えられて立藩した。慶長7年(1602)定利没後、養子忠昌(奥平信昌の子)が家督を継いだが、 同年に美濃国加納10万石へと転封となり、 吉井藩は廃藩となった。以後、この地は諸大名の飛地、旗本領、天領などとなった。
天和2年(1682)、蔵米1万俵を給されていあた堀田正休が蔵米を改めて、上野国多胡・緑野・ 甘楽及び武蔵国埼玉4郡内において1万石を与えられて吉井において再度立藩した。しかし、元禄11年(1698) 正休は近江国宮川1万石へと転封となり、吉井は再び旗本領・天領などになった。
宝永6年(1709)上野・上総両国に7千石を領する家門松平信清が、新たに上野国に3千石を加増されて、 矢田に陣屋を構えて三たび立藩した。松平信清は京都鷹司家の出である信平を祖とする。松平氏は参勤交代を行わない定府大名である。 信清のあと、嫡男信友が継ぎ、宝暦2年(1752)に吉井に陣屋を移したが、名称は矢田陣屋のままに残した。
その後、9代信発(のぶおき)の代の元治元年(1864)、改めて吉井陣屋と称するようになった。
明治2年(1869)3月、最後の藩主信謹(のぶのり)は上野国の諸藩に先駆けて版籍奉還し、同年12月には廃藩となった。
『藩と城下町の事典(東京堂出版刊)より』

現況・登城記・感想等

上信電鉄吉井駅の南が吉井陣屋のあった所であるが、今は市街地に埋もれて面影は全くない。 駅の約300mほどの所に陣屋の表門が移築されており、近接して郷土資料館がある。また、 その北西150mほどの所に陣屋内にあった春日神社跡の石塁が残っている。
ところで、説明板に「11代信発は水戸家蟄居(勤皇党の過激活動に対し)の大任を無事果たした名君である。」とあったが、 こんなことがそんなに自慢できるのかなあ?名君??
(2007/10/04登城して)

ギャラリー

表門
宝暦2年(1752) に矢田から吉井に移った後に建てられたもので、ほぼ200年を経ている。 明治4年の廃藩置県後に売却されていたものを昭和45年にこの地に復元した。
吉井陣屋表門

春日神社跡の石塁
ここは陣屋西南隅にあたる春日社跡である。 藩主家の氏神春日社を奈良から勧請し寛政3年(1791)陣屋内に祭った。

春日神社跡に建つ石碑等
奥の石碑の説明は字がよく読めなかった。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント