丹波 丸岡城(亀岡市)

丹波八上城波多野氏の臣・福井氏の居城、明智光秀の丹波攻めにて落城

別名

余部城(あまるべじょう)

所在地

京都府亀岡市余部町古城39番地西岸寺
電話:0771-24-4738

形状

平山城

現状・遺構

現状:西岸寺、市街地
遺構等:石碑、説明板

満足度(10点満点)

0点

訪城日

2008/07/06

歴史等

この地は、古城と呼ばれる小高い平地で丸岡城(余部城)の城跡である。現在でも「古城」・「古城浦」・「政所」などの地名、 城跡周辺に寺院などの跡地が点在し「兵庫寺跡」・「宝蔵寺跡」・「庚申堂跡」・城の東麓に「元西岸寺」が残る。
丸岡城が登場するのは、15世紀の応仁・文明の乱のとき東軍の軍事的拠点としてである。
戦国時代に入ると、天正(1573~93)年間、八上城の波多野氏が丹波をほぼ手中にし、 その傘下にあった福井因幡守貞政が、この城を守り地域権力の拠点的城として使われた。
しかし、天正6年(1578)6月3日、織田信長の命を受けて丹波に進攻した明智光秀の軍勢が宇津根・雑水川・ 安行山の三方から丸岡城を攻めて、落城した。
さらに勢いに乗じた光秀は八上城も攻め落として丹波を手中にし、 荒塚山に亀山城を築いた。
丸岡城の大手門は、この坂道あたりで天守閣は、西岸寺のあたりとされています。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

丸岡城跡である西岸寺は、JR山陰本線亀岡駅近くの民家が密集する町の高台にある。
従って、往時を偲ぶ雰囲気は全く無く、勿論遺構も残っていないが、城を築く立地条件がそれなりに良かったのは分かる。
また、西岸寺の門の下に立派な石碑がたち、坂の一番上には説明板も設置されている。
(2008/07/06登城して)

ギャラリー

西岸寺(右上が門)と坂道

西岸寺の庭
右の塀下は、切岸のようになって、石垣が積まれている。

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