武蔵 小代氏館(東松山市)

小代氏館跡と伝わる青蓮寺

武蔵七党・児玉党の小代氏の館

所在地

埼玉県東松山市大字正代、青蓮寺周辺
青蓮寺:正代851、電話0493-35-0375

形状

現状・遺構等

現状:青蓮寺
遺構等:銘板石塔婆、説明板

満足度

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訪城日

2008/06/24

歴史等

小代(しょうだい)氏は、武蔵七党の児玉党の入西遠弘が、小代郷に居住して小代を名乗ったことに始まる。
遠弘の子行平は、源義経に従い木曽義仲勢を京都から追放し、さらに一ノ谷合戦、奥州合戦などでも功績をあげ、建久元年(1190) の頼朝上洛の際には随兵を勤めるほどの武士であった。
行平は、建仁3年(1203)の比企氏の乱で北条時政邸の防衛にあたった功績により、越後青木郷・中河保、 安芸壬生荘の地頭職を与えられるなど。武蔵国以外にも所領を広げている。
その後、行平は、甥の俊平を養子に迎え、本領小代郷を俊平に譲り渡した。
小代重俊は俊平の子である。重俊は、子の重康の宝治合戦(三浦氏の謀反)における勲功により、肥後野原荘(荒尾市)の地頭に補任された。 しかし、重俊はその地は地頭代に任せ、本領小代郷にとどまり続けていた。
文永8年(1271)、蒙古襲来に備えるため、また、領内の争いを治めるため、幕府より、重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、 小代氏一族は野原荘へ移り住んだ。
小代氏は、その後三百数十年にわたり、その地で勢力を誇った。
『「現地説明板」、「中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館編(さきたま出版会刊)」より』

現況・登城記・感想等

青蓮寺周辺が小代氏の館跡で、寺の周囲に土塁や堀が残っているとされる。廻って見たが、境内に案内板や銘板石塔婆があるだけで、 遺構らしきものは見当たらなかった。
ただ、寺は高台にあり、裏側は絶壁になっており、いかにも領主の館にふさわしい場所ではあるかも。
(2008/06/24訪れて)

ギャラリー

弘安四年銘板石塔婆
弘安4年(1281)7月1日銘の板碑で、高さ2mを越す。これは、小代重俊の人徳を慕い、 供養のために一族が建立したとされる。また、弘安4年は蒙古の再襲来を受けた年であり、先祖の供養と合わせて一族の武運長久を願って、 小代に残った庶子家の小代一族によって建立されたと考えられる。
  

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