三河 山中城(岡崎市)

城址碑と説明板が建っている本丸跡

岡崎城主西郷氏により築城、松平清康(家康の祖父)の奇襲を受け落城

所在地

愛知県岡崎市羽栗町
【行き方】
国道1号線「山中小北の信号(名鉄・名電山中駅の西南100mほど)」を西へ700m程進み、羽栗病院の大きな看板の先で、右に曲がり、 農道を100mほど行くと、山中城址の登城口へと出る。駐車は、登城口の所を、さらに80mほど行くと駐車スペースがある。

形状

山城(標高196m、比高約100m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、堀切、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/06/06

歴史等

この地は、東海道と額田郡南部への道を押さえる重要な場所であった。岡崎城主西郷信貞は、 ここに山中城を築き、東三河に対する守りを固め、西三河を制覇しようとしていた。
しかし、大永4年(1524)安祥城の松平清康 (徳川家康の祖父)の奇襲を受け、一夜にして落城した。その結果、信貞は清康に屈し、岡崎城をも明け渡すこととなった。 以後、松平氏の本拠は岡崎城に置かれることになった。
その後、駿河今川義元の西三河進出の拠点となった。
永禄3年(1560)義元が桶狭間の戦いで死ぬと、松平元康(徳川家康)は山中城を落とし、再び、松平氏のものとなり、 家臣酒井忠次が居城した。
天正18年(1590)家康の関東移封に伴い廃城となった。
『現地説明板他参照』

現況・登城記・感想等

山中城址は遊歩道があり、廻れるようになっている。そのコースに沿って、1時間ほど掛けてゆっくりと見て廻った。
登城口から本丸までは、山城には珍しく、割り合いなだらかな道が続き、20分ほどで到着する。途中、ちょっと長めの土橋や、 櫓台のような土塁があり、本丸手前下には、土塁で囲まれた曲輪があった。
本丸と二の丸は繋がっており、本丸跡には、石碑と薄汚れた縄張略図付きの説明板が建っている。二の丸は本丸より一段低く、やや広く、 周りを土塁が取り囲んでいる。
二の丸から、遊歩道に沿って西側へと下りて行くと、腰曲輪が塁段になっている。また、空堀や大堀切も確認できる。
山中城は、説明板に「県下最大級の規模を持つ山城」と言うだけあって、城域は、かなり広いようで、 遊歩道のコースをはずれた所にもかなり見所があるようだった。
(2008/06/06登城して)

ギャラリー

縄張略図(本丸跡説明板より)
この本丸跡に設置されていた縄張略図付きの説明板は、あまりにも汚れていて何処が何処だか分からない。これだけ素晴らしい城址である。 もう少し何とかならないものだろうか?

山中城址全景
橋を渡って進み、右端中央が登城口。さらに進み奥の方に駐車スペースがある。遊歩道は、登城口から登り、 中央奥の山を通り、左の山から下りてくる。

登城口(左の道が遊歩道)

土橋
登城口から歩き始めて10分ほどで、この長い土橋へとでる。

本丸下の虎口曲輪
本丸手前下に、土塁に囲まれた曲輪がある。

本丸
本丸と二の丸は繋がっており、本丸跡には、石碑と薄汚れた縄張略図付きの説明板が建っている。 この奥に二の丸がある。

二の丸
二の丸は本丸より一段低く、やや広く、周りを土塁が取り囲んでいる。

腰曲輪
二の丸の西側下には、塁段になった腰曲輪が確認される。

空堀
最下段の腰曲輪の下には空堀が掘られていた。堀底道にもなっていたようで、ここを通って、 向こう側から曲輪へと虎口を通り、入って行けるようになっている。

大堀切
左側の土塁上を見上げたら、そこにも曲輪跡等があるようだったが・・・?

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