三河 安祥城(安城市)

大乗寺手前に建つ城址碑

織田vs松平・今川の攻防の城、竹千代(後の家康)と信広の人質交換が行われた

所在地

愛知県安城市安城町城堀

形状

平山城

現状・遺構等

現状:安祥城址公園、大乗寺、八幡宮
遺構等: 曲輪、土塁、堀跡、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

1991/01/13
2006/01/21

歴史等

室町時代中期の永享12年(1440)和田親平の築城と推定され、はじめ森城と呼ばれていた。三方を湿地にかこまれた台地突端に位置し、北部接続部に濠を掘った中世の本格的城郭(平山城)であった。
文明3年(1471)ころ、松平信光が攻め取り、以後50余年間、安城松平4代(親忠・長親・信忠・清康)の居城となりました。また、松平氏の本拠が岡崎城へ移ると、この城をめぐって松平・今川氏と織田氏との間に、天文9年(1540)から10年の間に5度に及ぶ攻防戦が繰り広げられた。
天文18年(1549)、今川義元は織田信広(信秀の子、信長の兄)の守る安祥城を攻め、城主信広を捕らえた。そして織田方の人質になっていた松平竹千代(後の徳川家康)と信広との人質交換が行われた話はという有名である。
桶狭間の戦いの後、永禄5年(1562)に信長と家康との同盟関係が成立すると廃城となったと考えられるが、天正12年(1584)小牧長久手の戦いにあたり、徳川勢によって改修工事を受けたとする説が有力である。
『参考:現地案内板』

現況・登城記・感想等

岡崎在住当時、ぶらっと寄ってみた(1991年1月13日)。当時は城址を見るのに細かい所まで見るといったこともなく、ただ石碑の前で写真を撮っただけでした。翌年のNHK大河ドラマが「織田信長」で、信長の父親・信秀が戦さからこの城に帰ってくるところから始まって、「ああ、あの安祥城だ!」と思いながら見た記憶がある。土塁や堀跡など、結構遺構が残っているようである。今度、実家へ帰る時にでも、じっくり見てみよう。
(1991/01/13訪城して)

久し振りに、訪城してみた。大乗寺前の石碑の所も含めて、以前来た時と比べ、随分綺麗に整備され、すぐ下には低い土塁らしき内側が芝生がはって綺麗になっている。井戸跡らしきものもあるが、その説明がないので、本物かどうかはわからない。大乗寺が本丸跡で、隣の八幡社が二の丸跡のようである。周りには、今でも一部湿地(田んぼ)があり、本丸と二の丸が低いながらも削ったような跡がある。こうして見ると、小さいながらもそれなりの防御がされた城であったろうことが分かるような気がする。
(2006/01/21に訪城して)

ギャラリー

本丸跡(現本乗寺)
正面土塁上が本丸跡の本乗寺

二の丸跡(現八幡社)

井筒の庭(土塁跡?と井戸跡?)

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