陣屋の土塁跡
淀城主稲葉正親の三男・正明が館山城址南麓に構えた陣屋
所在地
館山市館山(城山公園南麓)
【行き方】
城山公園(館山城)の南麓になる。道が細くてややこしいので、説明できません(スミマセン)。近くには、
館山の史跡めぐりの案内板が多く立っているので参考にして下さい(汗)。
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:宅地ほか
遺構等:井戸、土塁
満足度(10点満点)
0点
訪城日
2009/06/14
歴史等
里見氏は、小田原の陣に遅参したため、豊臣秀吉の怒りにふれ上総国の領地を没収され、安房一国9万2千石に削減された。
戦後は、関東に入封した徳川家康に忠実に従い、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦でも家康軍につき参陣し、
論功行賞によって常陸鹿島郡内に3万石を加増され、合わせて12万2千石を領有して館山城を本拠とした。
しかし、慶長19年(1614)、小田原城主大久保忠隣改易事件に連座して、
安房国の没収と鹿島領3万石の替地として伯耆国倉吉へ転封された。
里見氏が館山の地を追われてから、およそ170年後の天明元年(1781)、山城国淀城主・
稲葉正親の三男・正明が、分家の旗本・正福の養子となり、安房・上総両国内に1万石を与えられて立藩し館山城址の麓に陣屋を構えた。
正明のあとは、正武-正盛-正巳-正善と続き、約90年で明治を迎えた。
『藩と城下町の事典(東京堂出版刊)他より』
現況・登城記・感想等
館山陣屋跡は、館山城址である城山公園の南麓に土塁(何の土塁かは分からない)が残り、その上に稲葉稲荷神社が鎮座している。
大部分が宅地となり、宅地の中を通る路地脇に井戸が残っている。
碑とか説明板の類いはない。
(2009/06/14訪れて)
ギャラリー
陣屋跡土塁上に鎮座する稲葉稲荷神社
宅地の中の路地脇に残る井戸
土塁の西50mほどの処の宅地の中を通る路地脇に、この井戸を見付けた。最初は、まさか、
これが陣屋の井戸とは思わなかったが、以前、館山城址にある博物館で買った「房総里見氏(NPO法人南房総文化財・
戦跡保存活用フォーラム刊)」の写真と照らし合わせたら、同じ写真だったので確定!?それにしても、簡単なもので良いから、
案内板だけでも設置して欲しいものだ。