越後 本与板城(長岡市)

本丸の石碑と標柱、後ろは堀切、その向こうに二の郭

上杉謙信の重臣直江氏の最初の居城

所在地

新潟県長岡市与板町本与板
【行き方】
説明が難しいので・・・(汗)。与板町市街地に入り北へ向かうと、城址への案内看板がいっぱい出ているのですぐ分かると思う。スミマセン。

形状

山城

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切、井戸、石碑、標柱、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/05/24

歴史等

本与板(もとよいた)城の築城時期、築城者は定かではないが、建武元年(1334)に新田氏一族の籠沢入道が築城したとも伝わる。
南北朝期に入ると越後守護上杉氏の重臣飯沼氏が与板の地を治め、居城としていた。この城をもともと「与板城」と言っていた。
永正4年(1507)、越後守護代長尾為景と越後守護職上杉房能が争った「越後永正の乱」で、 飯沼氏は上杉氏に味方して長尾為景に攻められ滅亡した。
その後は、長尾為景の家臣直江実網がこの地を支配した。実綱は永禄年間(1558~70)に長尾景虎(上杉謙信)より「景」 の字を与えられ景綱と名乗りを変えた。
そして、天正年間(1573~92)景綱が南方に新城 (与板城)を築城し移ったといわれる。尚、この時に本与板城が廃城になったのか、以降も暫く使用していたのかは不明である。
景綱の死後は、総社長尾氏から養子に迎えた信綱が直江氏を嗣いだ。その後、「御館の乱」を経て、 樋口与六が直江氏を嗣いで直江兼続と名乗った。
慶長3年(1598)、景勝の会津若松城移封にともない、 兼続も30万石を与えられ、米沢城に入った。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

与板町には与板城が3つある。この本与板城、その後に移った与板城、 江戸時代に井伊氏が城主格となり築いた与板城 (与板陣屋)であり、もともとの「与板城」は、この本与板城である。
本与板城は、与板城に較べると比高差も60mほどで小規模ではあるが、 与板城と同様、基本的な縄張は連郭式である。
本丸、二の丸、三の丸やその間の堀切が良好に残り見応えも充分ある。
(2009/05/24登城して)

【余談】
NHK大河ドラマのせいで、与板城には非常に多くの観光客が押し寄せていたが、 この本与板城は、それと較べると、さすがに少なかったが、それでも登城する人が引きも切らずにあった(勿論、与板城と同様、 こちらも本丸まで来て、戻っていたが・・・)。
また、登城口までの道端に新しく説明板等が設置されたり、多くの幟がたてられていたり、 大河ドラマの威力のすごさを今更ながら思い知らされた。
(2009/05/24訪れて)

ギャラリー

見取り図(本丸跡案内板より)

全景
本与板集落背後に田んぼが広がる。その後ろにある比高60mほどの山が城址である。まともな逆光で、 こんな写真になってしまいました(汗)。

登城口
今回のNHK大河ドラマで造られたのか?山腹に三台だけ置ける駐車場がある。 そこから50mほど道路を登って行くと、この登城道へ出る。尚、右へ入って行く道が「直江屋敷 お船の方顕彰碑」となっていたが、 行けども行けども見つからなかった!?

本丸・二の郭間の堀切
登城道から5~6分で、この本丸・二の郭間の堀切が現れる。堀切は、深さ5m、天幅13m、 長さ30mほどあり、結構見応えがある。右が本丸、左が二の郭。

井戸跡
上写真の堀底道を登っていくと正面に「井戸跡」の標柱が・・・。湧き水があるらしいが、 すごい藪で全然分からなかった。

本丸
㊧本丸へ登ると、すぐ手前に標柱と石碑があり、断片的に土塁が残っている。

本丸にたつ石碑と見取り図案内板
奥の方にも石碑が立ち、その横に見取り図案内板が設置されている

本丸から堀切越しに二の郭を

二の郭・三の郭間の堀切
この堀切は、それほど深くなく底は平らである。右が二の郭、左が三の郭。

㊧二の郭、㊨二の郭の土塁
二の郭は、西側にコの字の土塁が巡っている。
 

三の郭
三の郭は、かなり荒れ果てていて、おまけに夕方で薄暗くなり、あまり中まで入って行かなかったのを、 今になって後悔している(泣)。

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