越前 一乗谷館(福井市)

下城戸

朝倉氏の居館、織田信長に大敗後、焼討ちにあい100年の歴史を閉じる

所在地

福井県福井市城戸の内町

形状

現状・遺構等

遺構等:曲輪、土塁、空堀、城門、復元館、復元庭園、石碑、説明板など

【国指定史跡】
指定日:昭和5年7月8日、(追加指定)昭和42年12月11日、(追加指定、名称変更、特別史跡指定)昭和46年7月29日
指定理由:戦国時代の山城と城下町の跡が一体となって良好に遺存する大規模遺構
面積:27万8,000㎡
資料館:福井県立朝倉氏遺跡資料館に出土遺物を展示

満足度

★★★★★

訪城日

1997/05/10
2005/05/04

歴史等

朝倉氏の本拠・一乗谷館とその城下町は、足羽川の支流一乗谷川に沿った南北に細長い谷底平野にある。東は一乗城山、西は御茸山が並行しており、南は三峰に囲まれ、北に足羽川が流れる天然の要塞で、その狭い谷の南北に、それぞれ城戸を設けて区切り、その間の約2km即ち「城戸の内」と両山の間約500mが城下町の主要部をなす。そして、標高470mの一乗城山上には詰の城・一乗谷城がある。
この地に目を付けたのが、一介の土豪から越前守護にまでのし上がった朝倉孝景で、15世紀半ばのことであったらしい。朝倉氏はこれから5代130年にわたって、一乗谷を拠点とした。
5代目の義景の時、浅井氏とともに織田信長に対抗するが、元亀元年(1570)の姉川の合戦で敗れ、さらに天正元年(1573)の合戦でも大敗し、そのまま衰亡し、一乗谷は織田方に与した平泉寺衆によって火を放たれ、三日三晩燃え続けたという。
その後、信長に越前八郡を与えられた重臣柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に移したため、一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
そして400年以上の時が流れ、昭和42年(1967)に始まった発掘調査で当時の遺構がそっくり姿を現し、「一乗谷朝倉氏遺跡」として戦国時代の町造りを克明に伝える遺跡となっている。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」参照』

現況・登城記・感想等

一乗谷館への入口にある「下城戸」の石垣は実に立派な石垣である。そこから入城すると「平面復元地区」が現れ、家々の区画や井戸跡・溝跡がはっきりわかる。更に進むと「復元町並み」が垣根越しに見えてくる。
道路沿いの一乗谷川に架かっている御屋形橋を渡ると、最初に「諏訪館跡庭園」に出る。実に素晴らしい石庭である。これが400年もの時を経て、地中から出てきたのかと思うと実に大きな驚きと共に感激をする。まさに、日本のポンペイ「一乗谷館跡」である。
そこから一乗谷山に沿って平行に歩いて行くと義景の母高徳院の居館があったといわれる「中の御殿跡」に出る。さらに進んで行くと「湯殿跡庭園」に出る。この石庭もなかなかのものである。それをさらに突っ切って進んで行くと、左下に大きな屋敷跡が見える。
それが、「朝倉義景館跡」である。館跡は非常に広く、上から見るので遺跡全体がよく見える。ここにも立派な石庭があり、また当時としては珍しい花壇(花壇として日本最古の遺構)もあり、井戸跡、堀等々が見事に掘り起こされている。館跡の正面入口には唐門がある。この唐門は当時の遺構ではなく、後に建てられていた松雲院の寺門として豊臣秀吉が義景の菩提を弔うために寄進したものだそうだ。
館跡のさらに先には「南陽寺跡庭園」がある。この石庭もはっきり残っていた。この庭園跡はまだ完全には発掘が終わってないのか、地中に埋まっている大きな石がいくつも顔を出している。
一乗谷の一番奥には「上城戸」があるが、何の変哲もない土手のようである。その城戸外に、足利義昭の御所跡があるが、ここもただ平らに整地された跡だけである。
そして何といっても、今回の訪城で一番残念だったのは、山上の一乗谷城址への登城道が、昨年の台風で通行止めの為登れなかったことである。
(2005/05/04訪城して)

ギャラリー

一乗谷絵図(現地案内板より)
DSC07230

下城戸
一乗谷の谷が最も狭くなっている地点2ヶ所をえらんで築かれた一乗谷への出入口には、石垣や堀・土塁で城門(上・下城戸)が築かれ、狭い地形を利用した防御施設で固められていました。現在、上城戸は幅13m、高さ5m、長さ50mの土塁。下城戸は幅18m、高さ5m、長さ20mの土塁が残っていますが、下城戸は、実に大きな石が使われた見事なものです。上・下の城戸間は約1.8kmあり、「城戸ノ内」と呼ばれ、城主の居館、重臣の屋敷等が密集していました。 
01下城戸1

下城戸の土塁上から
01下城戸2

一乗谷川
下城戸から入ると、左手に一乗谷が流れている。朝倉氏一乗谷館及び家臣の屋敷をはじめ、その一乗谷川に沿って城下町が設けられています。
02一乗谷川

朝倉景鑑館跡
しばらく南進すると、左手に織田信長に攻められた時に主君朝倉義景を裏切った朝倉景鑑の館跡があります。景鑑は朝倉義景の従弟にあたるが、景鏡は義景に一乗谷からの撤退と自領の大野郡における再起を進言。景鏡は撤退してきた義景一行に宿舎を提供した上で、これを軍勢により包囲し、義景を自害に追い込み、その妻子を捕縛した。景鏡は義景の首級と、捕縛した母親(高徳院)・妻子・近習を信長に差し出し、降伏を許された。 
03朝倉景鑑館跡

一乗谷町並み・平面復元地区
さらに進むと、右手に一乗谷町並み・平面復元地区があり、建物が復元表示され、井戸や水路跡もあります。
05平面復元地区

町並み立体復元地区
さらに南進すると、右手に武家屋敷などが復元された立体復元地区があります。当写真は、のちほど訪れた中の御殿跡脇から見下ろしたものです。
06町並み立体復元地区

一乗谷川に架かる「御屋形橋」(遠くの山並みが一乗谷城址)
立体復元地区の南側にある駐車場に車を停めて、一乗谷館へむかいます。
07御屋形橋 

諏訪館跡庭園
まず、最初に諏訪館跡へ出ます。諏訪館は義景夫人・小少将の屋敷跡と伝えられる。庭園は一乗谷で最も規模の大きい廻遊式林泉庭園です。
09諏訪館跡庭園1
 

諏訪館跡庭園をズームアップ
苔むした石と山もみじの緑のコラボが何とも言えず風情があります。
09諏訪館跡庭園2 

道路跡
諏訪館から中の御殿までは立派な道路があったようです。
11道路跡
 

中の御殿跡
13中の御殿跡 

空堀
中の御殿と湯殿の間は空堀で断ち切られていたようで、ここには石垣も残っています。
15空堀

湯殿跡庭園
一乗谷で最も古い4代孝景の頃の廻遊式林泉庭園です。 
17湯殿跡庭園

朝倉義景館跡全景
19朝倉義景館跡 

朝倉義景の墓
25義景墓所 

朝倉義景館跡庭園
21義景館跡庭園

朝倉義景館跡の花壇
花壇として日本最古の遺構だそうです。 
23義景館跡花壇

唐門
この唐門は当時の遺構ではなく、後に建てられていた松雲院の寺門として豊臣秀吉が義景の菩提を弔うために寄進したものです。
27唐門

義景館の周囲を囲む水堀と土塁
義景館の周囲(北・西・南)は土塁と水堀がめぐっています。
26義景館跡堀 

南陽寺跡庭園へ到る竹林の堀底道
何とも云えず気持ちのいい道です。 この木漏れ日があたる竹林の中を南陽寺跡へ向かいます。
29竹林

南陽寺跡
南陽寺は、朝倉一族によって創建され、3代貞景が再興したと伝えられる尼寺で、永禄11年(1568)春、足利義昭を招き、歓桜の歌会を催したことで知られます。
31南陽寺跡

南陽寺庭園跡
この庭園跡はまだ完全には発掘が終わってないのか、地中に埋まっている大きな石がいくつも顔を出していました。
33南陽寺庭園 

上城戸
館跡を見て廻ったあと、南端の上城戸へ向かいました。下城戸が立派な石垣で出来ているのに対して、上城戸はただの土手?失礼! 
35上城戸

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