三河 伊奈城(豊川市)

城址全景

伊奈本多氏の約150年間の居城、徳川家の「三つ葉葵の紋」ゆかりの地

別名

上嶋城

所在地

愛知県豊川市(旧小坂井町)伊奈町柳38

形状

平城

現状・遺構等

現状:伊奈城址公園・田圃
遺構等:土塁、曲輪、堀?、物見櫓(模擬)

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2004/02/07

歴史等

15世紀の中頃本多定忠・定助の築城で、上嶋城ともいわれていた。天正18年(1590)本多康俊が、下総国(千葉県)小篠へ移封されるまでの百数十年間、伊奈本多氏の居城であった。
伊奈城主の菩提寺東漸寺に伝わる古図によると、三方を河川と沼地に囲まれた要害堅固な地に加えて、城下まで舟運の便の良い地であった。
永禄年間に大塚城主岩瀬氏に攻められたが、時の城主本多忠俊は兵を柳堤に出して防ぎ、御馬・梅藪に出て戦いこれを退けた。伊奈城の攻防はこの一戦だけである。
下総国小篠へ移封後は廃城となり、それ以来400年余りを経た現在も土塁の一部と本丸の郭跡が残っている。特に土塁は室町時代の地方の平城跡を今に伝える数少ない貴重な遺構である。
伊奈本多氏は遠州今川方と三河松平方の境に位置し、ある時は今川方にまたある時は松平方に従い、戦国時代を生き抜いてきた。
『現地案内板より』

【三つ葉葵の紋】
享禄2年(1529)、5代伊奈城主本多正忠は、松平清康の吉田城攻めに参加し、これを落城させました。ついで、田原城に転戦しましたが、戸田氏が降伏したので、正忠は清康を伊奈城に招き、戦勝の祝宴を開きました。この時、水葵の葉を敷いて酒肴を出したところ清康は大いに喜び、それ以後伊奈本多氏の「立葵の紋」を松平氏の紋とするとし、その後、徳川氏の「三つ葉葵の紋」に引き継がれました。
<現地案内板より>

現況・登城記・感想等

たまたま、国道1号線を通ったら、伊奈城址の看板が見えたので寄ってみた。
田んぼの真ん中に小さな伊奈城址公園として残されているが、すぐ裏には牛小屋があり、城址公園への道は、牛の糞だらけ。

ギャラリー

本丸と土塁、手前には井戸跡
本丸北側には、5~6mほどもある土塁が残っていた。土塁上には石碑が。また手前は井戸跡であろうか?

土塁上には「伊奈城址」の石碑

水堀(模擬?)

生念台跡
ここの地下約0.7mに伊奈城初期(15世紀中頃)の複数の火葬跡や火葬人骨と共に、6文銭が発掘された。この発掘により、生念台は正念台で。正念とは一心に念仏することで、ここに葬られた武者を弔い礼拝する所であったと思われる。

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