尾張 小牧城(小牧市)

主郭跡に建つ模擬天守(歴史館)

信長が美濃攻略の為に築城、後の「小牧長久手の戦い」で家康が本陣にする

別名

小牧山城

所在地

愛知県小牧市堀の内1丁目
【行き方】
山頂には小牧市歴史館(模擬天守)があるので、これを目標に行けばよい。また、南麓(大手口側)には小牧市役所があるので、 これを目標にしても良い。
尚、駐車場は北東山麓にある。

形状

平山城(標高:85.9m)

現状・遺構等

現状:史跡公園
遺構等:模擬天守(小牧市歴史館)、曲輪、土塁、石垣、空堀、水堀、石碑、説明板、遺構解説板等

満足度

★★★★

訪城日

1992/08/16
2010/01/23

歴史等

桶狭間合戦・清洲同盟によって後顧の憂いをなくした織田信長は、永禄6年(1563)美濃攻略のため、清洲城から美濃に近いこの小牧山へ移り、 山全体を城域とし、多数の曲輪を設けた。要所には重臣の館を築き、南方に大手道を開いた。また、小牧山南麓から西麓に城下町を形成した。
しかし、信長にとって小牧山城はあくまで美濃攻略の為の一時的な拠点であり、永禄10年(1567)に美濃を攻略すると、稲葉山城 (岐阜城と改名)に居城を移し、小牧山城は廃城となった。
本能寺の変後、信長の後継者争いが起こり、17年後の天正12年(1584)、羽柴秀吉と信長の二男信雄・徳川家康の連合軍が小牧・ 長久手の合戦で激突した。その時に家康の本陣として、この小牧山城が使用された。
徳川家康・織田信雄軍は、この小牧山城を拠点に羽柴軍に対して戦かったが、秀吉の別働隊が三河侵入を試み、 これを家康が撃退したという長久手の合戦を除いて戦闘らしい戦闘は行なわれず、結局勝敗はつかずに和睦した。
その後小牧山は歴史の表舞台に立つことはなく、江戸時代には尾張藩によって入山禁止の措置が取られた。
現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ新たに土塁・堀を築くなどして改修された家康軍の陣城の跡である。
小牧山城の縄張は山麓と中腹の横堀で二重に囲い込まれるが、山麓の長大な土塁と横堀は家康の改修の際に築かれ、 秀吉軍と直接向かいあう東から北にかけて、大軍勢を収容する幅広な帯曲輪と北側の搦手口などの出撃用の虎口が築かれたと推定されている。
『現地説明板他より』

現況・登城記・感想等

小牧城は、その機能から、次の5地区に区分される。
①主郭地区(山頂を中心とする曲輪群で、城の中心部)
②西側曲輪地区(山頂西側尾根の曲輪群で、主郭地区の西側を守る役割を果たしていたと考えられる)
③大手曲輪地区(南斜面中腹の巨大なテラス状の曲輪群で、物資の集積などに使われたと推定される)
④西側谷地区(西の谷に沿った曲輪群で、城の遺構でなく、城が築かれる前の寺院の可能性もある)
⑤帯曲輪地区(山を取り巻くように配置された曲輪群で、二重の土塁と堀の内側に山麓をめぐる形で配置された曲輪群で、 大軍勢を収容したとみられる)

山頂の主郭跡に建つ模擬天守(小牧市歴史館)の是非はともかくとして、大都市名古屋市の郊外にありながら、曲輪・土塁・石垣・ 空堀等々の遺構が良好に残っているのが嬉しい。
また、山麓の帯曲輪地区東部は土塁・堀・曲輪が発掘復元され綺麗な史跡公園となり、往時の姿を甦らせている。その中で、 帯曲輪を取り巻く延々と続く長大な土塁と堀は圧巻である。
小牧市役所文化振興課によると、『今後も、史跡本来の姿にそぐわない土地利用、施設(市役所本庁舎、青年の家などは史跡外へ移転する予定) は排除し、城跡として歴史的空間との一体性を強化し、将来的には、史跡公園と有機的整合性をもった周辺地域のまちづくり整備を行う。』 とのことである。嬉しいかぎりだ。
(2010/01/23登城して)

ギャラリー

縄張略図(現地説明板より)

㊧主郭に建つ模擬天守(小牧市歴史館)、㊨主郭への石段
主郭には模擬天守(歴史館)が建てられている。この建物は、秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現在、 西本願寺内)をモデルに昭和43年に建設された。天守上からの眺望はよく、周囲が見渡せ、犬山城や岩崎山砦なども見える。
 

主郭周囲は発掘調査中
主郭の西側は発掘調査中(2010/01/23現在)で一部残る石垣(写真左側)が少し見えるだけだった。

主郭西側の石垣

主郭北部の喰い違い虎口(縄張略図虎口d)
主郭地区の北部に、ちょっとした枡形虎口と言ってもいいような喰い違い虎口跡が確認できる。

主郭地区と西側曲輪地区を分ける空堀
写真の左側上が主郭地区、右側が西側曲輪地区

曲輪
小牧山城の山腹には多くの曲輪が設けられている。この写真の曲輪は、上写真の堀の右側の曲輪で、 周囲は高さ1m前後の土塁で囲まれている。

大手道
いかにも信長による築城らしく、安土城と同じように、 大手道は小牧市役所の西側から山頂部へ一直線に延びている。この大手道を見るまで、守る側には不利としか思えない一直線の大手道は、 信長が完全な実力者となってからのもので、安土城が最初だと思っていたが、信長の性格によるものなのだろうか??

空堀
大手道を登って行くと、この空堀へと出る。正面の空堀は主郭地区(写真右側)と西側曲輪地区(写真左側) を切断する空堀であるが、奥上へと登っていっており、3段上の写真の空堀へと続いている。また、手前から右の方へも横堀となって続いている。

搦手口
山の北側が搦手口で、喰い違い虎口となっている。 写真左側の土塁は長大な土塁で帯曲輪地区東部まで延々と続いている。

【帯曲輪地区】
帯曲輪地区の東部は発掘されて、復元された綺麗な史跡公園になっている。帯曲輪と云えども、 他の城の帯曲輪のイメージとは全く違い、幅も50mはあろうかという広さであり、長さはあまりにも長すぎて、ちょっと測れなかった。 これなら、何万という兵も収容する事ができただろう。
(帯曲輪地区の配置図)

堀跡
帯曲輪を囲む堀は、往時は水堀だったようで、一部は川になっている。

土塁
帯曲輪を囲む延々と続く長大な土塁はみごとである。

曲輪402

曲輪404から南の帯曲輪を

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