三河 本証寺(安城市)

鼓楼と水堀

三河一向一揆の拠点となった城郭寺院、三河三ケ寺の一つ

所在地

愛知県安城市野寺町野寺26本証寺
本証寺:電話0566-99-0221

形状

城郭寺院

現状・遺構等

現状:本証寺
遺構等:水堀、鼓楼、土塁、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/06/05

歴史等

本証寺は鎌倉時代に建立されたと伝えられる。
永禄2年(1559)の桶狭間合戦で今川義元が織田信長により討取られた後、松平元康(徳川家康)は、西三河を制し、 さらに東三河の今川勢力をも着実に駆逐していった。そして、権力強化政策を立て続けに打ち出していった。
当時、三河における浄土真宗勢力は、本証寺・上宮寺・勝鬘寺の三河三ケ寺が多くの末寺・末道場を抱えて威勢を誇っていた。
永禄6年(1563)の秋、三ケ寺を中心に三河一向一揆が起こった。この時、家康麾下の武士達も門徒側として反抗するものが多かったという。 一揆の原因については、多くの説があるが、宗門に対しても様々な圧力行為がなされたようである。
しかし、門徒の内部崩壊によって衰え、同7年(1564)の初めには終焉を迎えた。
本証寺は、破却追放の憂き目にあったが、天正13年(1585)に復帰が許され、江戸時代初期には本堂の再建も行われた。
『「歴史群像シリーズ50、戦国合戦大全上巻・下克上の奔流と群雄の戦い(学研刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

本証寺と言えば、何と言っても、本多正信をはじめとする徳川家康の部下をも巻き込んだ三河一向一揆の舞台として有名である。 現地に着いたとたんに「なるほど」と思った。
本証寺は、山門前から本堂を取り囲むように内堀がめぐらされており、外堀も一部残っている。
内堀は、ほぼ完全な形で残っており、満々と水を称えている。
この内堀と北東隅に建つ鼓楼を合わせて見ると、城郭寺院と言うよりも城そのものである。
(2008/06/05訪れて)

ギャラリー

北東隅に建つ鼓楼
内堀と北東隅に建つ鼓楼を合わせて見ると、城郭寺院と言うよりも城そのものである。

東側北部分の内堀
本堂を取り囲むように内堀がめぐらされている。内堀は、ほぼ完全な形で残っており、満々と水を称えている。

東側南部分の内堀

北側の内堀(㊧北側東部分、㊨西部分)
㊧北側内堀中央には石橋が架けられている。写真奥は本証寺。㊨北側内堀の西の方には寺と本堂を繋ぐ廊下橋が架けられている。堀は、 廊下橋の下を、さらに西側内堀へと繋がっている。

 

㊧南側の内堀、㊨西側の内堀
南側は木々が鬱蒼と生えている下に、満々と水を称えた広い堀である。
 

㊧山門、㊨本堂
㊧この両側に水が満々と称えられた内堀がある。㊨本堂の右奥は、北側西方に架かる廊下橋。
 

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