近世城郭のような行基寺の石垣
高須藩主松平義行が名目上は行基寺として築いた有事の際の城
所在地
岐阜県海津市南濃町上野河戸1024-1
行基寺:電話0584-55-0031
形状
城郭寺院
現状・遺構等
【現状】 行基寺
【遺構等】 曲輪、石垣、復元狼煙台
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2014/06/06
歴史等
臥龍山城は、美濃高須藩主松平義行が、名目上は行基寺として、元禄15年(1702)から7年がかりで築いた有事の際の城である。
行基寺は、伝承によれば、天平16年(744)、地方を巡っていた行基がこの地の洪水による被害を目の当たりにし、聖武天皇に懇願し人々のために建立したという。
南北朝時代の延元元年(1336)、結城友定の手により焼失したが、正平年間(1346~70)に再建されたという。
美濃高須藩藩主松平義行は、行基寺を松平氏菩提寺とし、元禄15年(1702)から大規模な改修工事に着手し、宝永6年(1709)、改修工事が完了した。文政3年(1820)には山門が建立された。
現在の本堂は天保3年(1832)再建である。
明治維新になるまでは、一般の人々が参拝することを禁止していたという。
『「日本城郭大系9」、「ホームページ・臥龍山行基寺」他参照』
現況・登城記・感想等
名目上を寺院として築いたという臥龍山城は、まさに近世城郭のような石垣で囲まれた寺です。
有事の際の城としての機能を有していたので、その立地は養老山地の中腹に築かれており、濃尾平野が一望のもとに見渡せます。
現在では、別名「月見寺」、「隠れ城」、「お月見の寺」と呼ばれ、西美濃三十三霊場27札所として参拝する方が多いようです。
(2014/06/06訪れて)
ギャラリー
行基寺の石垣と塀(南面)
行基寺は、養老山地山腹、かなりの高さにありますが、急坂道を車で登って行くことができます。その急坂道を登り切ると、まさに近世城郭を思わせる石垣と塀が見えます。
行基寺の石垣と塀(東面)
復元燈台(狼煙台)
寺の東側には、削平された台地があり駐車場となっている。その北東端には、復元燈台(のろし台)が建てられている。
天平の頃(729~749)に行基寺が建立された時に、この地に3m余の石積みによる高燈籠が築かれ、常夜灯として、遠くの人々から菩提山(臥龍山)の燈台、法燈様と崇められていた。戦乱時には狼煙台としても使用されたこともあるが、南北朝期の頃に兵火により寺院とともに焼失した。その後、江戸時代中期の宝永(1704~11)の初め、高須藩松平義行が行基寺を再建した際に、再び築かれ、揖斐・長良・木曽の三大川を行き交う船の標識と夜間の燈台としての役割を果たした。時を経て、平成に入り、当時の資料や伝承に基づいて復元された。(現地説明碑より)
眺望
復元燈台(のろし台)脇からは、眼下に濃尾平野が一望のもとに見渡せます。
山門
文政3年(1820)に建立されたものだそうですが、見事なものです。
本堂
現在の本堂は天保3年(1832)再建です。
刻紋石
境内には刻紋石が置かれています。慶長18年(1613)、名古屋城築城の際、当山(臥龍山)一帯より採石された河戸石の一つで、当時、この地域には蜂須賀家政(小六の子)、細川忠興、鍋島勝茂ら3人の西国大名が出向き、多くの石材(河戸石)を採石している。この刻紋石は蜂須賀家政が切り出したもので、当時、輸送中に落としたか何らかの理由で放棄されたものと思われ、当地・南濃町上野河戸の元船着き場近くに埋もれていたものです。(現地説明板より)