遠江 宇津山城(湖西市)

小郭周囲をめぐる石積み土塁

三河境の押さえとして今川氏が築き、のちに徳川方が遠江進出の基地とした城

所在地

静岡県湖西市入出字正太寺鼻
【アクセス】
湖西中学校から国道301号で50m程南下した「太田」信号を東へと県道333号に入り、浜名湖・正太寺鼻方面へ2km程進みます。正太寺背後の山(北西と東の2ヵ所有)が城跡で、山上の霊園まで車で上がれます。
正太寺:湖西市入出800、電話053-578-0049

所要時間

駐車場所(霊園)のすぐ前が城跡(西側曲輪群)です。今回の見学時間は32分でした。

形状

山城(標高49.5m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2014/05/14

歴史等

宇津山城は、大永4年(1524)に、三河境の押さえとして今川氏親が築城した(現地説明板には永正3年、1506頃となっている)。
初めは長池親能を在城させたが、重要な位置にあったため、享禄年間(1528~32)以降は、今川家重臣朝比奈氏が4代にわたり在城した。
永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間合戦で討死すると、今川氏は三河における支配地を徳川家康によって取り戻されて、今川氏は遠江へ後退した。
今川氏の三河における最後の拠点であった三河今橋城(吉田城)も、同7年(1564)頃から徳川軍に攻撃されて開城し、城番の小原鎮実(大原資良と同一人物?)は宇津山城に入ったが、永禄12年(1569)西遠江の今川氏の属城が次々と徳川氏に内通するに至って、宇津山城を捨て駿河に帰った。
宇津山城を手に入れた徳川家康は、松平家忠を入れて拡張工事をして遠江中部への基地とし、元亀3年(1572)になると松平清善に在番を命じた。尚、同年12月に武田信玄による三河・遠江侵攻の際に、家康は三方原合戦で大敗するが、宇津山城は侵攻ルートからはずれていた。
その後、遠江全域が徳川氏支配となった天正9年(1581)頃までに戦略的役割を終えた宇津山城は自然廃城となった。
『「日本城郭大系9」、「静岡の山城・ベスト50を歩く、加藤理文・中井均編(サンライズ出版刊)」、「現地説明板」ほか参照』

現況・登城記・感想等

宇津山城は浜名湖西岸の湖に突き出た半島の独立丘陵にある。半島の先端部は正太寺鼻といいます。
縄張りは、正太寺を挟んで、西側の宇津山頂部を中心として南北に曲輪を連ねた西の城と、東側の正太寺鼻に向かって東西に曲輪を連ねた東の城で構成されているようです。
これら縄張りの形成過程は、今川氏支配時に東の城の曲輪群が築城され、今川氏と徳川氏の対立時に西側の守備を強固にするために丘陵西側の西の城の曲輪群を拡張し、さらに武田氏の侵攻に備えて全体を再普請したようです。
但し、私自身は、強烈な藪に阻まれて、西の城の一部しか入って行けず、全体像はほとんど分かりませんでした(/。ヽ)。
それでも、霊園背後の曲輪(三の曲輪)の土塁や石積み、南北に連なる曲輪群の至る所で草木に隠れた石積の土塁や段曲輪、また周囲を石塁に囲まれた小曲輪が確認でき、それなりに見応えはありました。
せめて、もう少しでも整備されたら明らかに見応え十分な城跡になるであろうことを考えると残念です。
(2014/05/14登城して)

ギャラリー

宇津山城遠景(北側から撮影)
宇津山城は浜名湖西岸の湖に突き出た半島の独立丘陵にある。半島の先端部は正太寺鼻(写真左)といいます。
01宇津山城遠景

竪堀?
車で正太寺背後へ登って行くと、左手下に深い溝が見えます。正太寺下まで落ちていってますが竪堀でしょうか?
03竪堀

西の城主郭?を区画する土塁
車で登り切ると霊園へ出、その背後に大土塁が見えます。西の城の曲輪内へ入ったようです。曲輪は土塁で二区画に分かれています。車はこの付近に駐車します。多分、ここが本丸なのでしょうが、大土塁手前の説明板には、「現在確認できるのは三の曲輪で・・・」となっているし、今一つ分かりません(/。ヽ)。
また、帰って来てから2~3冊の本に描かれた縄張図と突き合わせてみたのですが、やはり分かりません(/。ヽ)。
尚、説明板の手前に「←宇津山城跡・散策コース」の案内板があり、大土塁の手前を左の方へ進むようになっています。

05郭

西の城主郭?から浜名湖を見下ろす
後ろを振り返ると、ギラギラ輝く浜名湖が見えます。
IMG_8819

大土塁奥の曲輪
大土塁奥の曲輪は、周囲を土塁で囲まれているようですが、右手方面は強烈な藪のため、どうなっているのか確認できませんでした(/。ヽ)。
09郭

大土塁手前の曲輪の石積み
左手奥には高さ1mほどの石積み土塁が確認できます。散策コースは写真右から入って行くようになっています。
07郭石垣

散策コース
「散策コース」の案内に従って、先程の大土塁奥の曲輪を右手上に見ながら進むと、前方に、また「散策コース」の案内板が立っています。尚、この案内板は、これが最後です。

11散策コース

小曲輪
「散策コース」の案内板に従って左へ下りて行くと、石積み土塁に囲まれた小曲輪へ出ます。曲輪内は強烈な薮で入って行けそうもありません(/。ヽ)。この曲輪虎口の角部の石垣は、比較的大きめの石が使われています。
13小曲輪

武者走り
小曲輪の虎口付近には武者走り遺構が確認できます。
15武者走り

小曲輪虎口
小曲輪内は強烈な藪なので、虎口を出て、土塁の左外側を廻って入って行くことにしました。ここから先は全く案内板はなく、道もなく薮だらけですが、一体、このどこが「散策コース」なのでしょうかねえ(苦笑)。
17小曲輪虎口

薮の中に石垣が
小曲輪の先は、まさに薮・薮・薮です(/。ヽ)。右手に土塁を見ながら、藪を掻き分けながら入って行くと、右手の至る所に石垣が確認できます。どうやら、進んでいるところは、二の丸下の帯曲輪のようです。
19石垣

21石垣

段曲輪
一部、段曲輪跡のような地形も確認できます。
23段曲輪

二の丸?と土塁
強引に土塁を直登すると、土塁の向こう側は広い削平地になっていました。多分、二の丸なのでしょうが、その強烈な藪は、とても突入していけるような代物ではありません(苦笑)。結局、これを最後に戻ることにしました(/。ヽ)。
25土塁と薮

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