遠江 堀越館(袋井市)

背後の丘陵から海蔵寺を

今川了俊を祖とする遠江今川氏の居城

読み方

ほりこしやかた

別名

堀越城

所在地

静岡県袋井市堀越764-1、海蔵寺
【アクセス】
海蔵寺周辺と背後の丘陵一帯が城跡と考えられる。
海蔵寺:袋井市堀越764−1、電話0538-42-4607

形状

現状・遺構等

【現状】 海蔵寺、丘陵、宅地など
【遺構等】 曲輪?、土塁?、今川了俊供養塔

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2014/05/21

歴史等

堀越館は、*今川了俊(貞世)を祖とする遠江今川氏の居城と言われている。
遠江今川氏の居城はこの堀越館と見付端城が伝わり、貞世の後貞臣、貞相と続いたがいずれの時代に堀越館、見付端城を居城としたのか等々不詳である。
天文12年(1543)今川義元が西楽寺に与えた安堵状に地頭堀越貞基の名が残り、この堀越氏は遠江今川氏の末裔である。
『日本城郭大系9より』

*今川了俊(貞世)
今川了俊は、足利尊氏に従って今川氏の勲功を打ち立てた今川範国の次男で、知略を備えた名将であった。3代将軍足利義満の時、征西将軍宮懐良親王率いる南朝軍が九州を席巻しており、了俊は時の管領細川頼之から九州探題に補任された。大内氏らの支援を得て九州に入った了俊は、九州南朝方の主柱菊池氏や鎮西の三豪と称される少弐氏・大友氏・島津氏らと渡り合って、25年に渡って九州統一事業を推し進めた。しかし突如解任され、失意の内に遠江に戻った。この解任には諸説あり、感状を勝手に発給するなど独自の権威を高めつつあった了俊を義満が危険視したためとも、対明貿易のために了俊の存在が障害になったからだとも言われる。また、了俊は文才にも優れ、当代一流の歌人であると共に、『難太平記』を著述して貴重な資料を後世に残した。

現況・登城記・感想等

「遠江国風土記伝」によると、堀越館は、郭内に海蔵寺が建ち、背後には山があり諏訪神社があった。この丘陵は旧城であり、丘陵の北は深泥でカキツバタが生えている。」とあります。
現在の海蔵寺周辺は改変が進み、明確な遺構は残っていませんが、寺背後には丘陵地があり、そこには明治初期に諏訪神社・秋葉神社・浅間神社・八幡神社が合祀されて改名された須賀神社が建っています。
丘陵上には、明確な遺構は見当たりませんでしたが、丘陵は逆コの字型に、まるで城塁(大土塁)のように、かつては深泥であったという地を取り囲んでいます。
また、境内には今川了俊の供養塔が残っています。
(2014/05/21訪れて)

ギャラリー

海蔵寺
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海蔵寺背後の丘陵
丘陵上には、明確な遺構は見当たりませんでしたが、丘陵は逆コの字型に、まるで城塁(大土塁)のように、かつては深泥であったという地を取り囲んでいます。当写真は、深泥跡と思われる地の北側から撮ったもので、深泥跡は、テニスコートや畑地になっていました。
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丘陵上に建つ須賀神社
寺背後には丘陵地があり、そこには明治初期に諏訪神社・秋葉神社・浅間神社・八幡神社が合祀されて改名された須賀神社が建っています。諏訪神社は、応永7年(1400)に今川了俊が祭ったものです。
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今川了俊供養塔
寺の西側の墓地には今川了俊の供養塔が立てられています。背後に見える建物は須賀神社です。
今川了俊は、今川氏の祖・今川範国の次男として嘉暦元年(1326)に生まれた。駿河・遠江の守護として室町幕府の要職や九州探題を勤めたあと、自分の領地であった堀越に戻り、海蔵寺を創立したといわれる。了俊は武将としてのみでなく、歌人としてもすぐれていて海蔵寺には「小倉百人一首」から四首をとった了俊直筆の『歌切』もある。この供養塔は、了俊330回忌にあたる寛延2年(1749)に立てられている。(了俊供養塔説明板より)。
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堀越藤左エ門の墓
また、墓地には「堀越藤左エ門之墓」がありますが、城主堀越氏の一族でしょうか? 立派な石碑が立っているものの説明がないので分かりません。また、帰宅後調べたのですが分かりませんでした(/。ヽ)。
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