本郭と北郭間の堀切と北郭に再現された櫓
今川氏築城の有事の際の山城、今川氏滅亡後は武田氏のものに
所在地
静岡市清水区蒲原
【行き方】
新蒲原駅から北へ善福寺方面に登って行く途中に搦手登城口
形状
山城
現状・遺構等
現状:城山公園
遺構等:再現櫓(3基)、再現逆茂木、曲輪、土塁、石垣、空堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/07/31
歴史等
蒲原城は蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期の頃か。
築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城したものと思われる。
文献上には特定の城主はなく、戦乱の折、城代・城番が置かれた。永享13年(1441)正月における牟禮但馬守範里、天文13年(1544)
から同14年にかけての飯尾豊前守、永禄4年(1561)の佐竹又七郎、同雅楽助、永禄12年(1569)1月今川氏の盟友・
関東北条方の北条真三郎が守城の折、本郭を大改築したが、同年12月6日武田氏の攻撃にあい落城、蒲原城は武田方に移った。
その後、天正10年(1582)2月徳川勢による落城まで武田氏の治下にあって当地の土豪、地侍による「蒲原衆」を編成しこの地を治めたが、
天正18年(1590)3月、小田原征伐の折、徳川勢の着陣を最後に廃城となった。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
車でかなり上まで登っていくことができ、搦手側から登城すると、最初に大空堀の標柱に出会うが、藪がすごくてほとんど見えない。
しかし相当な深さがあるのは想像できる。
そこを少し登っていくと、北曲輪(善福寺曲輪)下の腰曲輪に出る。そこは発掘調査がよくされているらしく土がむき出しになっており、
低いものの、周りを土塁で囲まれており、石垣もかなり残っている。
さらに少し登っていくと北曲輪に出る。北曲輪の周りも土塁で囲まれ、逆茂木、木柵、櫓3基が再現されており、
戦国時代の城の雰囲気を醸し出している。そして本郭南曲輪との間には見事な堀切があり、ここが本郭を守る最後の砦であるのがよく分かる。
残念ながら今日は曇り勝ちの天気であったが、ここからの眺望が見事なのはよく分かる。
東南方面は真下に蒲原の町とその向こうは駿河湾が拡がっている。そして東方面から北西にかけては高い連山が望め、
これらの山の向こうから武田軍が侵入してきたんだなあ!などと感慨に耽って、しばらくそれらの景色に魅入ってしまった。
そこから、さらに最頂部へ登って行くと、「本郭南曲輪」と大きな表示があり、そこには城址碑や鳥居が建っている。社殿もあり、
その奥へ行くと先程の見事な堀切を挟んで、北曲輪がすぐ真下に見下ろせる。
蒲原城は、有事の際の城としては、かなりしっかりと築城されているように感じた。そして又、よく整備されていた。
町の方々に本当に感謝したい。
ところで、富士山が見えなかったけど、天気が良ければ見えるんだろうか?それとも北東の山々が邪魔をして見えないんだろうか?
誰か知っている方がいれば教えて下さ~い!
(2007/07/31登城して)
ギャラリー
蒲原城全景(左の道が搦手登城口)
車でかなり上まで登っていくことができ、搦手側から登城する。
大空堀
最初に大空堀の標柱に出会うが、
藪がすごくてほとんど見えない。しかし相当な深さがあるのは想像できる。
【北曲輪下の帯曲輪】
土塁
発掘調査がよくされているらしく土がむき出しになっており、低いものの、
周りを土塁で囲まれており、石垣もかなり残っている。右写真の左側は、下写真の石垣。
石垣
石垣はここだけでなく、
この奥にもあり、またここから北曲輪へ登る所にもある。
【北曲輪(善福寺曲輪)】
北曲輪の周りも土塁で囲まれ、逆茂木、木柵、櫓3基が再現されており、
戦国時代の城の雰囲気を醸し出している。そして本郭南曲輪との間には見事な堀切があり、ここが本郭を守る最後の砦であるのがよく分かる。
本郭との間の堀切と再現された櫓
北曲輪
正面の一段高い所が本郭南曲輪
櫓上から北曲輪東側を
北側は低い土塁、
東側は逆茂木が再現してある。
【北曲輪からの眺望】
㊧北西方面、㊨北東方面 ~両画面共クリックにて拡大画面に~
【本郭南曲輪】