伊豆 狩野城(伊豆市湯ヶ島町)

伊豆の有力土豪狩野氏により築城、北条早雲に攻められ開城

所在地

静岡県伊豆市湯ヶ島町本柿木、本柿木農村公園
【行き方】
修善寺から国道136号線を南下、柿木川を渡ったらすぐに右(西)へ曲がり、しばらく進むと城址(本柿木農村公園)へと出る。

形状

山城

現状・遺構等

【現状】 本柿木農村公園(山林)
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、虎口、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/03/02

歴史等

狩野城は、平安末期(1100年頃)狩野氏によって築かれた。
狩野氏は、平安時代からの在庁官人で、代々「狩野介」を称した、いわゆる実力派の土豪である。祖狩野維景が駿河守を退任し、初め、市内日向に館を構えたが、その子維職が伊豆押領使を務めるなど、軍事上の必要もあり要害の地を選んでこの地に移った。最初の城主は2代維職か3代維次と思われる。
維景から5代の孫茂光は、その子親光と共に源頼朝に従い、治承4年(1180)石橋山の合戦にて敗北自刃したが、子孫は鎌倉・室町両幕府に伊豆を代表する武将として仕えた。
明応2年(1493)からの伊勢新九郎(北条早雲)の伊豆侵攻の折、城主狩野道一は足利方に付き戦い、明応7年(1498)に敗れて開城した。
その後、一族は小田原に移り、後北条氏の重臣として要職を歴任している。
室町時代中頃から絵師として栄えた、狩野派の初代狩野正信は、維景から16代の孫である。
『「現地説明板」、「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」より』

現況・登城記・感想等

狩野城跡は非常によく整備された公園になっていますが、その名は、何故か「本柿木農村公園」となっています。
山麓に設置された案内板に沿って遊歩道を気持ちよく散策することが出来ます。
狩野城は、深く険しい谷等、天然の要害地に築かれた城であることがよく理解できると同時に、結構大規模な空堀や土塁、曲輪等の遺構もよく残り、なかなか見応えのある城跡です。
(2008/03/02登城して)

ギャラリー

城址案内図(現地説明板より)
城址はよく整備された公園になっており、案内図の遊歩道に沿って散策。東(左)側から登った。
狩野城跡案内図

深く、険しい谷
狩野城は、深く険しい谷等、天然の要害地に築かれた城であることがよく分かる。
険しい谷

出丸
出丸と言えど、結構広い。この辺りは、あまり整備されてはいなかったが、東側から南側にかけて土塁が巡っている。 
出丸

出丸から東郭、中郭へと
出丸から西へと進むと、東郭との間は堀切で断ち切られている。堀切へ階段を一旦降りる。
出丸から東郭へ

左に中郭、右に東郭を見上げる
左奥が中郭、右手前上が東郭。左(南)側は天然の崖になっている。

左に中郭と右に東郭

東郭
東郭は広くはなく、櫓が建てられていた程度だろうと思う。中郭と東郭の間も堀切で切られてる。
東郭

中郭
中郭となっているが、ここが本丸で、この中心地ではなかったのではないだろうか?また、中郭の北片隅には題目堂と名付けられた小堂宇が建てられているが、かなり荒れ果てた感じだった 
中郭

中郭北側の土塁と石碑
中郭の北側から西側にかけては土塁が巡り、北側土塁上には「狩野介茂光公堡塁之跡」と刻された石碑が建っている。
中郭北側の土塁

南郭
中郭の南西には、北側から西にかけての土塁から繋がる南郭があるが、この郭も狭く(東西10m、南北20mほど)、物見櫓が建っていた程度ではと思われるが? 
南郭

本郭
本郭となっている割には、中郭より低い削平地にあり、あまりにも狭いような気がする。確かに、周りは要害で、東西に空堀(特に、西側は2重堀)があり、郭の周りも土塁が巡ってはいるが、どうなんだろう?本郭手前は、東側の空堀。
本郭

二重空堀(本郭側から撮影)
かなり埋ってしまい、1m程度の深さではあるが、2重堀をはっきり確認できる。 
二重空堀

西郭の東側の堀切
ここの堀切はかなり大規模なものである。 
空堀

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