伊勢 矢田城(桑名市)

矢田城跡(走井山公園)の三段の段曲輪跡?(左奥は勧学寺)

桑名地方36家衆の中心矢田氏により築かれた城、信長により滅亡

所在地

三重県桑名市矢田261(走井山公園)
【アクセス】
三岐鉄道北勢線「馬道駅」の北西約100mの高台上にある走井山公園が城跡。公園内に広い駐車場がある。

形状

平山城

現状・遺構等

現状:走井山公園、勧学寺
遺構等:段曲輪?、説明板

満足度

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訪城日

2010/12/02

歴史等

矢田城は、元亀(1570~73)或いは天正年間(1573~92)に矢田半右衛門尉俊元により築城されたとされる。
矢田氏の祖は毛利氏の家臣山内俊行で、その子俊元が伊勢国司北畠氏に属してこの地に城を築き、矢田半右衛門俊元と称したという。
俊元は、桑名地方36家衆の一人で、後藤弥五郎(西別所城主)、後藤太郎左衛門基則(額田城主)、後藤十郎左衛門(蓮花寺城主)、岩田権六 (安永城主)など近郷の諸氏を押え、当地方の中心的存在であったと伝える。
「伊勢名勝志」では、天正5年(1577)、矢田城は、織田信長の命による滝川一益の伊勢平定で落城し、 城主俊元は自害したと記されているが、永禄年間(1558~70)の織田信長勢による伊勢侵攻時に落城したとする文献の方が多い。
また、長島一向一揆の前線基地とされ、天正2年(1574)滝川一益が長島城主となるや、 臣下の杉山十左衛門・野呂孫右衛門に当城を守護させたとしている。
同11年(1583)、羽柴秀吉が滝川一益を北伊勢に追った時、この矢田城も落城したと思われる。
その後、元和年間(1615~24)、松平定綱が勧学寺を城内の一隅に創建し、現在に至っている。
『「現地(勧学寺)説明板」、「日本城郭大系10」等より』

現況・登城記・感想等

矢田城跡は、走井山公園と勧学寺境内となり、春には桜の名所として多くの市民で賑わうようだ。
遺構は何も残っていないようだが、塁段となった3段の削平地が往時の名残りだろうか?
多少木々が邪魔するが、公園(城跡)から伊勢湾を望む眺望は良い。
(2010/12/02訪れて)

ギャラリー

矢田城跡(走井山公園)からの眺望
多少、木々が邪魔するが、公園(城跡)から伊勢湾を望む眺望は良い。

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