長深城本丸跡に建つ善正寺、手前には城址碑
京都御所南門の警備を掌っていた冨永氏の居城
所在地
三重県員弁郡東員町長深2648(善正寺)
形状
平山城
現状・遺構等
現状:善正寺
遺構等:土塁、櫓台?、石碑
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2010/12/03
歴史等
長深城(ながふけじょう)は、暦応年間(1338~42)、北朝の臣で、京都御所南門の警備を掌っていた冨永筑後守富春が築城し、子の冨継、孫の冨輝と続き、代々南門の警護に当たった。
2世紀後の冨知の時、長島一揆が起こり、元亀2年(1571)織田信長の軍によって長島城が陥落し、天正2年(1574)長島城主となった滝川一益により夜襲を受けて長深城は落城した。冨知は尾張に逃げ、隠退したといわれている。
冨永氏の一族は、天正9年(1581)に善正寺を創設し、現在に至っている。
『日本城郭大系10他参照』
現況・登城記・感想等
長深城(ながふけじょう)は、独立状の丘陵に築かれて、四方が自然崖になっている。
善正寺の本堂が長深城の本丸の位置に当たる所とされ、境内には最近まで城の土塁や石垣の一部が残されていたそうだが、道路拡張工事により撤去されたという。
本堂前には、「長深城の跡」が立ち、その横には城壁に使われたとされる切石が置かれている。
境内の南に鐘楼があるが、そこが櫓台跡らしいが、ブロックで固められているので、もう一つ実感がわかない。
北東裏側に廻ってみると、土塁跡のようなのがあり、その下が急崖になり城に相応しい立地にあるのが分かる。
(2010/12/03訪れて)
ギャラリー
城跡(善正寺)を南東下から見上げる
長深城は、独立状の丘陵に築かれて、四方が自然崖になっており、この寺へ登る坂道もかなり急である。しかも、こちら(東)側が一番傾斜が緩やかで、帯曲輪があったとされる。尚、左上に見える鐘楼の台が櫓台といわれているが、ブロックで固められているので、もう一つ実感がわかない。
城跡の碑
昭和63年(1988)、本堂の前に「長深城の跡」の碑が東員町教育委員会によって建てられた。この碑の横には城壁に使われたと思われる切石が置かれている。
土塁
お寺の北東部裏に廻ると、土塁らしき形跡があった。
急崖
上写真の右下を見下ろすと、急崖になっており、城の立地に相応しいのが分かる。