伊勢 川北城(津市)

公園内に残る土塁(櫓台?)

長野工藤氏の与力川北氏により築かれた城

所在地

三重県津市大里川北町字東谷
【アドレス】
国道23号「栗真中山町」信号から県道10号に入り近鉄を越え、伊勢鉄道をくぐってから4つ目の信号を右折する。志登茂川を「今井橋」で渡り、道なりに進むと左手に「かわきた苑」という団地があり、この団地の南西隅に城址公園がある。この付近一帯が城跡。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 かわきた苑、川北公園
【遺構等】 郭、土塁、堀?、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2011/08/16

歴史等

川北城は文永11年(1274)、長野工藤氏の与力川北氏によって築かれた。
歴応2年(延元4年、1339)~貞治5年(正平21年、1365)にかけての北畠氏と高師秋との戦いは、中勢を中心に行なわれ、長野氏を中心とする土豪もこの戦いに参加した。この中にあって川北城は、康安元年(正平16年、1360)に高師秋・土岐頼義らに攻められて落城している。
その後、応仁の乱の時には長野氏らと共に失地を回復し、川北城も文明2年(1470)~延徳3年(1491)の頃には既に再建されていたものと思われる。
尚、発掘調査の結果、川北城の盛期は13世紀末から14世紀中頃にあったことが判明した。
『「日本城郭大系10」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

川北城の城域は、往時は2万5千㎡にも及ぶ広大なものであったようだ。今では、大部分が「かわきた苑」という団地になり消滅してしまっているが、団地の南西部に公園があり櫓台のような土塁が残り、その前に城址碑と説明板が立っている。
土塁上には木が植えられており、あまり眺望はよくないが、木々の隙間から周囲を見ると、この地が西側から南側にかけて急崖になった高台の上にあるのが分かり、木がなければ、確かにここからは伊勢別街道や一身田の町がよく見渡せるようで、城地に適していたのが納得できる。
(2011/08/16訪れて)

ギャラリー

公園西隅の土塁
公園に入ると西隅に櫓台のような土塁が見える。
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城址碑と説明板
土塁の前には石碑と説明板がある。説明板には「川北城は、文永11年(1274)、長野工藤氏の与力川北氏によって築かれたといわれている。城は、東海道から関で分かれて津に至る伊勢別街道が平野にかかる地点を見下ろす台地上にある。台地の南西斜面に土塁・空掘・郭などを築き、その背後の丘陵上に居館を配し、 その面積は25000m3に及ぶが、現在多くの部分が住宅団地となっている。昭和53年・59年にほぼ全域が発掘調査された。その結果、堀や土塁・柵列で区切られたいくつかの郭を形成し、その中に多数の堀立柱建物を配しているというきわめて計画性を持った城であることが明らかにされた。出土遺物は、山茶碗・山皿・鍋・釜などの日常雑器の他、青磁・白磁など中国から輸入された高級陶磁器も出土している。川北城の盛期は13世紀末から14世紀中頃にあり、鎌倉時代から南北朝時代にわたる地方武士団の生活様式を示している。」と記されている。
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土塁上
土塁は2段になっており、土塁上はちょっとした天守も建てられるほどの広さがあるが、櫓台だろうか?
周囲には木々が植えられており眺望はよくないが、木々の隙間から覗くと、この地が西側から南側にかけて急崖になった高台上にあり、木がなければ、確かにここからは伊勢別街道や一身田の町がよく見渡せ、城地に適していたのがわかる。

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土塁の西側
土塁の西側は急崖になり、その下の方に溜池がある。溜池そのものは、往時のものではないだろうが、自然の谷を堀として利用されていたことだろう。
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腰曲輪?
南側には一段低い削平地があるが、腰曲輪跡だろうか。その向こうはかなりの急崖になっており、遠くには志登茂川も見える。
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