曲輪西側の土塁と空堀
織田信雄の伊賀攻めにあたり滝川雄利(一益の娘婿)に築かせた城
所在地
三重県名張市下小波田字内山
【アクセス】
国道165号「小波田」信号を県道692号へと北に入り、300mほど川沿いに北上してから、斜め右へと県道692号をキープし、200mほど北上した2本目の路地を右折し、250m程進むと右手に酒屋があり、その脇に小さな案内板があり、案内通りに右折する。100m程東進し右手に見える雑木林が城跡である。駐車は、この辺りの畑余白に停めるしかないでしょう。登城は、ここから農道(畦道?)を通り、城跡の西側へ廻って入る。
㊧酒屋脇の案内板、㊨駐車した場所、背後の雑木林が城跡
形状
丘城
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2011/11/15
歴史等
永禄12年(1569)織田信長が南伊勢攻略の大軍を発したとき、伊勢国司北畠具教は山深い霧山城から下り、 大河内城(おおかわちじょう)を本拠とし、補強して迎撃態勢を固めた。
阿坂城を陥れた織田軍は、ついで、その南方にある大河内城を攻撃し、8月末から連日のように猛攻撃をしかけたが、城方はびくともしなかった。
しかし、9月に入ると、兵糧が尽きて、城内から餓死者が出始めたので、具教は抵抗を断念し、信長の二男信雄を養子にするという条件で和睦した。
天正4年(1576)、信雄は具教を暗殺して実権を握り、さらに伊賀を手中にしようと伊賀攻めを敢行したが、同7年には伊賀勢の反撃を受けて撃退された。
2年後の同9年には、総勢3万数千の軍勢で伊賀攻めに向かい、比自山砦(伊賀市)を落とした後、柏原城(名張市)に到着した。要害堅固な柏原城は容易に落ちず、合戦が長期間に及ぶ様子であったので、桜町中将城を家臣の滝川雄利(滝川一益の娘婿)に命じて築かせた。
伊賀平定後、信雄は南伊賀を治めるために必要な館としてこの城を完成したが、父信長が天正10年(1582)に本能寺の変で倒れてしまったために、信雄の立場も変わり、当城の重要性も弱まった。
尚、織田信雄は、京都の屋敷が桜町にあったことから桜町中将とも呼ばれ、城名になったものと思われる。
『日本城郭大系10より』
現況・登城記・感想等
桜町中将城は、入口を南側に設け、曲輪周囲に土塁、その外側に空堀がめぐり、さらに堀切を北に設けている。
城跡は雑木林となり、ほとんど未整備状態であるが、曲輪周囲の土塁や空堀がはっきり確認できる。土塁も空堀も規模は大きく、見応え充分だ。
もう少し整備がされたら、小さいながらも見事な城跡が現れるだろうと思うと惜しい気がする。
(2011/11/15登城して)
ギャラリー
曲輪北西部の土塁と空堀
土塁は曲輪の土塁(右)の他に空堀の外側(左)にも築かれている。写真は、曲輪西側の空堀外側の土塁上から撮ったものである。
曲輪南西角の土塁と空堀
城跡は雑木林となり、ほとんど未整備状態に近いが、虎口までの道は、それなりに整備され入って行くことが出来る。写真中央奥が曲輪南西角の土塁で、その左が空堀で、写真右が虎口への道。
虎口
虎口は、曲輪の南側にある。
曲輪
曲輪内に伐採した木の枝(左側)が積まれていて、写真では分かり辛いが、周囲を囲む高さ3mほどの土塁は完存で、現物は見応え充分だ。