伊賀 滝川氏城(名張市)

高い土塁に囲まれた本丸跡を南虎口から眺める

織田信雄の伊賀攻めの際に滝川雄利(一益の娘婿)が築いた城

別名

小波田城(しもおばたじょう)

所在地

三重県名張市小波田字下出
【アクセス】
国道165号「小波田」信号を県道692号へと北に入り、300mほど川沿いに北上してから、斜め右へと県道692号をキープし、200mほど北上した2本目の路地を右折し、300mほど進んで下小波の集落の中へ入り、しばらく行くと右手に酒屋がある。さらに真っ直ぐ進み、集落を通り過ぎると、急に左前方に田んぼが広がってくる。そこに左に入る路地があるので左折し、そのまま進むと左手に運動公園(グランド)がある。ここが城跡で広い駐車場が完備されている。

 
IMG_7045尚、酒屋さんの脇に城跡への案内板(左写真)が立っているが、この案内板は歩行者用で、それにしたがって細い路地へ入って行くと、どんどん狭くなり、軽自動車さえも通れないほどになるので要注意!!
私は、そこを入って行ってしまい、バックして戻るのに四苦八苦した( ̄ー ̄;。

 

 

 

形状

丘城

現状・遺構等

【現状】 グラウンド
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/11/15

歴史等

永禄12年(1569)の織田信長が南伊勢攻略で、北畠具教は信長の二男信雄を養子にするという条件で和睦した。
しかし、天正4年(1576)信雄は具教を暗殺して実権を握り、さらに伊賀を手中にしよう伊賀攻めを敢行しようとした。その際、信雄の家臣滝川雄利(滝川一益の娘婿)は伊賀攻めの足がかりとして丸山城を築いたが、同6年7月25日、伊賀勢の攻撃を受けてほうほうの態で信雄のもとに逃げ帰った。
同7年には7千余の信雄勢で伊賀へ来攻したが、敗退したため、同9年には総勢3万数千の軍勢で、再度来攻した。滝川雄利も副将として比自山砦(伊賀市)を落とした後、柏原城(名張市)に到着した。要害堅固な柏原城は容易に落ちず、合戦が長期間に及ぶ様子であったので、信雄の本隊を桜町中将城に戻し、短期間に当城(滝川氏城)を築いたと考えられる。
乱後、雄利は伊賀守護の地位につき、丸山城に入り、南伊賀を支配するのに必要な居城として完成させ、家臣を置いて守らせたようである。
『日本城郭大系10より』

現況・登城記・感想等

滝川氏城は、伊賀地方によく見られる典型的な単郭式城郭だ。
しかし、さすがに一土豪の城でなく、織田氏家臣滝川雄利により築城されただけあって、その規模は他では見られないほどで(単郭式城郭では三重県最大の規模だそうだ)、本丸内は70m四方あり、周囲を取り囲む土塁の高さも3~4m、底部幅8mほどある立派なものだ。
本丸内は、今は、野球グラウンドになってバックネットが設置されているが、硬式野球場でも使えそうなくらいだ。
また、土塁の周囲をめぐる空堀も、北側は埋められてしまっているようだが、その他はほぼ良好に残っている。
虎口は、南北にあり、南側には丸馬出しのような出丸が設けられ、その周囲の土塁も良好に残っている。
(2011/11/15登城して)

ギャラリー

北側の田園から滝川氏城を望む
小波田の集落内を北へと進むと田園地帯になる。滝川氏城跡は、その田園の北のなだらかな丘にある。
遠景

本丸内北の土塁上から城跡(グラウンド)全景を
本丸跡は野球グラウンドとなり、本丸内の北隅にバックネットが設置されている。まさに野球場にはピッタリだ。写真はバックネットの斜め後ろの土塁上から撮ったもので、正面奥が南虎口になる。
全景

本丸北西部の土塁
本丸北西部の虎口から入城すると、4m近くある、本丸の広さと、それを取り囲むこの高い土塁に驚く。
北側土塁

本丸南西部の土塁
西側土塁

本丸南東から東にかけての土塁
南側から東側にかけての土塁

本丸南東部の空堀
南虎口から出ると、本丸南東部の空堀が良好に残っているのに気が付く。
南側空堀

本丸南西部の空堀
南西部の空堀も薮に覆われているとはいえ、良好に残っている。こちらは、空堀の外側にも土塁が・・・。
西側空堀

本丸南虎口の外に設けられた出丸?(馬出し)
出丸はキーウィーフルーツの畑になっていたが、周囲をめぐる土塁は良好に残っている。
出丸

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント