主郭南東部の土塁と空堀
戸木城の背後を守るために木造具政が築いた出城
読み方
みややまじょう
所在地
三重県津市(久居市)戸木町字敏太
【アクセス】
敏太神社(通称戸木神社)の北西裏山が城跡。伊勢自動車道「久居インター」を下り、国道165号を500m程西進した「戸木町」の次の信号(百五銀行とJA戸木店の間)を右へ曲がり、250m程北上すると、左手に敏太神社へ向かう道がある。そこを入り60~70mほど西進すると敏太神社へ出る。 敏太神社:津市戸木町2013-1、電話059-255-3918
所要時間
敏太神社拝殿から主郭まで3~4分
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 山林(敏太神社裏山)
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2013/05/31
歴史等
宮山城は、天文年間(1532~54))に木造具政が戸木城の北の守りの出城として築いたといわれている。
木造具政は、伊勢国司北畠家第7代当主・北畠晴具の三男(次男説あり)で、養子として木造家に養嗣子として入った。
永禄12年(1569)5月、織田信長が伊勢に侵攻して来ると、長兄・具教に背いて信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった信長の次男・織田信雄の家老となる。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際、織田信雄は徳川家康と組み、羽柴秀吉に対して交戦したが、木造氏は織田信雄軍の一員として羽柴秀吉軍の蒲生氏郷と戦うことになった。宮山城は氏郷軍に攻められ落城し、改修された後、戸木城攻めの拠点になった。
この際、宮山城は主郭が単郭方形で外部施設として二重囲みの堀・土塁を設け、堀に折れを持たせた織豊系の築城技術で改修されたといわれている。
その後、羽柴秀吉と織田信雄の和睦により停戦となり廃城となった。
『現地説明板ほか参照』
現況・登城記・感想等
宮山城は、もともと戸木城の出城として築かれただけに、規模が小さい上、比高も低く、要害地に築かれているわけでもなく防御的には決して高かったとは思えない。
しかし、主郭を中心に良好に残る土塁と空堀は、落城後、羽柴軍によって改修されたものだけに、通路が複雑に折り曲げられたりして見応えがあり、それなりに満足できる。
(2013/05/31登城して)
ギャラリー
宮山城縄張図(現地説明板より)
敏太神社拝殿
敏太神社拝殿脇(写真左)に宮山城の説明板があり、その先の階段を登って宮山城へ向かう。
城域へ
敏太神社拝殿脇から登り、3分もすれば城域へ入る。両側を土塁に挟まれたS字カーブした道がありますが、これは枡形虎口の跡のようです。
土塁と空堀
枡形虎口(上写真)手前の右側の土塁を撮ったものですが、土塁外側には空堀が掘られている。
主郭へ
虎口を入り右へ曲がると、主郭を取り囲む土塁と空堀が見えます。
主郭南東部から南側にかけての土塁と空堀
主郭周囲は、土塁と空堀がめぐっている。空堀は、あまり深くないが、往時はもっと深かったことでしょう。
主郭南東部から東側びかけての土塁と空堀
主郭の東側へ廻ると、主郭虎口が見えてくる。
主郭虎口
主郭虎口は平虎口です。虎口の手前(空堀手前)と虎口内に鳥居が立っている。虎口は、石垣で固められているが、往時の物かどうかは分かりません。
主郭内
主郭は、土塁に囲まれているのですが、木々が生い茂り写真では分かり辛いです。
主郭内東部分
土塁上から南側空堀を
土塁の高さはは、主郭内からせいぜい2m弱ですが、こうして土塁に登って空堀を見下ろすと結構高く感じます。現在の堀底からでも3m弱はありそうで、それなりに防御はできるのかもしれないですね。
主郭東側曲輪(馬出し?)の外側をめぐる空堀
空堀は二重にめぐっています。