僅かに残る土塁、手前に城址碑
平維茂の子孫平貞冬が、越前朝倉から来て築城
所在地
三重県四日市市茂福町里の内
形状
平城
現状・遺構
現状:住宅地
遺構等:土壇、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/05/04
歴史等
平維茂の子孫平貞冬が、越前朝倉よりこの地へ来て、茂福城(もちぶくじょう)を築き朝倉を名乗った。保々西城(四日市市)
の朝倉備前守と同族である。
永禄10年(1567)にいたり、最後の城主茂福掃部輔盈豊は、織田信長の武将滝川一益のため長島城へ誘い出され殺された。
城主を失った茂福城兵は滝川勢と激しく戦ったが、攻め落とされたという。
滝川氏は目代として山口氏を置き治めさせた。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
茂福城址は、近鉄名古屋線の線路脇に石碑があり、小さな土壇に墓が建てられているだけである。
この場所は、城の主郭の北西角に当たるそうで、この土壇は、その土塁の一部だとのことである。
(2007/05/04登城して)
ギャラリー
㊧土壇と説明板、
㊨土壇上に墓
土壇の上に石碑がと思ったら「満児喜圓大居士」と彫られている。 墓のようだ。説明板には、
それについて触れていなくて、誰の墓か分からないが、多分、何代目かの城主の墓だろう。