大手虎口と本丸土塁
国人領主長野氏一族の家所氏の居城、信長の伊勢侵攻により廃城に
所在地
三重県津市美里町家所(明顕寺の裏山)
明顕寺:家所2241、TEL059-279-3159)
形状
平山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石垣、井戸、櫓台、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2008/05/06
歴史等
家所城(いえどこじょう)は、貞治元年(1362)に家所祐歳によって築かれた。
家所祐歳は長野城主工藤氏祐の第三子で、この地方の24ケ村を領地したという。
その後、8代の間(200年間)よく栄えたが、織田信長の伊勢侵攻により、敗れ、城も荒廃した。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
明顕寺のすぐ裏(北東)にある小高い山が家所城跡で、登城口(南側)にある案内板に大雑把な絵図が載っている。
そこから、少し登ると主郭虎口(大手門跡)へ出るが、ここには一列であるが石垣が残り、脇には多くの「つぶて石」が散乱している。
虎口(大手門)を入ると、周りを2m近い高さの土塁が巡る主郭が何ともかっこいい。
主郭北中央には櫓台であろうか、高い土塁がある。石段で登るようになっているが、往時のものであろうか?土塁上には祠が祀られている。
その土塁横には「抜け穴跡」の案内板があり石組みの穴があるが、果たして何処まで本当なのか?・・・。その隣のやや高くなっている土塁は
「見張り番」となっている。主郭には井戸跡もあった。
この城の最大の見所は空堀であろう。主郭の東側には空堀が明瞭に残っているが、その規模の大きさは感動ものである。
深さ8m以上はあるであろう。降りて行って何枚も写真を撮った。
堀の東側も曲輪跡のようだったが、全く整備されていないようで、腰の調子も考え、今回は入って行くのは止めた。
主郭西側にも同じくらい大規模な空堀が残っているが、木々が鬱蒼と生えており、降りて行くことはおろか、写真にも撮れなかった
(撮ったが写真では堀はほとんど分からない)。
家所城跡は規模は小さいが、見所充分である。また、主郭に関しては、よく整備され、案内板もしっかりしていて散策しやすく有り難かった。
(2008/05/06登城して)
ギャラリー
家所城の図(現地案内板より)
登城口(南側)にある案内板に大雑把な絵図が載っている。矢印の通り、西側の空堀へ行こうとしたが、
鬱蒼とした雑木林に阻まれて通って行くことは不可能だった。矢印の意味が分からなかった。
家所城址全景
家所城のこの小高い山は、孤立した山で守るに良い地形を利用していると説明板にはあったが、
周りを囲まれたら脱出に困るのでは?山の麓やや右に上写真の絵図が載っている案内板があり、その後ろから登城する。
手前の水田と一段上辺りが侍屋敷跡のようだ。
虎口(大手門跡)
登城口から少し登ると主郭虎口(大手門跡)へ出るが、ここには一列であるが石垣が残っている。
つぶて
主郭虎口脇の土塁下には一部は埋もれているが「つぶて石」が散乱していた。当時は、「つぶて」
も大きな武器としていたのがよく分かる。
主郭
虎口(大手門)を入ると、周りを2m近い高さの土塁が巡る主郭が何ともかっこいい。表紙写真は、
この写真の左側部分である。
井戸跡
大手門を入ってすぐの所に井戸跡が残っている。
櫓台?
主郭北中央には櫓台であろうか、高い土塁がある。石段で登るようになっているが、往時のものであろうか?
土塁上には祠が祀られていた。
「抜け穴」と「見張り台」
櫓台と思われる土塁の東側には、「抜け穴(写真中央)」と「見張り台(抜け穴奥の土塁)」が。
抜け穴
抜け穴は石積みで組まれている。家所城は孤立した山であり、確かに脱出時の抜け穴は必要であったろうが、
果たして、どこまで本当なのだろうか?
主郭東側の空堀(主郭上から撮影)
この城の最大の見所は空堀であろう。主郭の東側には空堀が明瞭に残っているが、
その規模の大きさは感動ものである。深さ8m以上はあるであろう。
主郭東側の空堀(堀底にて撮影)
主郭西側の空堀(主郭西側土塁上から撮影)
主郭西側にも同じくらい大規模な空堀が残っているが、木々が鬱蒼と生えており、降りて行くことはおろか、
写真にも撮れなかった(撮ったが写真では堀はほとんど分からない!?)。