城址碑
亀山城主・関盛政の長子・盛澄が分家して築いた城
所在地
三重県鈴鹿市飯野寺家町字城掛(「焼肉のさかい」の100mほど南)
焼肉のさかい:鈴鹿市寺家町字城掛315-1、電話:059-384-5529
形状
平城
現状・遺構等
現状:市街地
遺構等:石碑、説明板
満足度
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訪城日
2008/09/25
歴史等
沢城は、亀山城主・
関盛政の長子・関盛澄が、正平22年(1367)に築いた城で、亀山城
(若山城)を本家に、沢城・国府城
(こうじょう)・鹿伏兎城
(かぶとじょう)・峯城を分家とし、「関一党」を構成していた。
城主は、盛澄-実重-為盛-具盛と続き、代々「神戸氏(かんべし)」を称していた。神戸氏は、鈴鹿郡と河曲群の内、24郷を支配しており、
天文年間(1550年前後)、神戸城に移るまで約200年間、
神戸氏の居城であった。
沢城の構造は明らかでないが、現在のこの地が本丸跡と考えられ、東西約130m、南北約80mの楕円形で、
周囲の水面より70cm程高くなっている。周囲には、「城掛」「城西」「馬渡」などの字名が残り、
本丸を囲む曲輪が多数存在していたことをうかがわせる。
本丸の周囲は近年、店舗等の建造物で埋め尽くされているが、その際の試掘調査では、
周囲が城の名のごとく沼地であったことが確かめられており、本丸南端の水路工事に際しては、「むめ、かく」の墨書土器が出土している。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
城跡は全く跡形もないが、広い空地の南端(水路の北)に驚くような立派な石碑と説明板が立っている。
(2008/09/25訪れて)
ギャラリー
明治20年第5大区一ノ小区、伊勢国河曲群寺家村、同西条村地籍図(現地説明板より)
墨書土器「むめ、かく」(現地説明板より)