城址全景(北側から)
鎌倉時代に坂田信濃守重次が築城、戦国期に織田軍により滅亡
所在地
三重県四日市市水沢(すいざわ)町字東条(ひがしじょう)
【行き方】
四日市市街地から県道44号線を西進し水沢へ入り、県道11号線を鈴鹿市方面へ向かうと内部橋に架かる「昭和橋」へ出る。昭和橋手前(北側)
右手(西)の山が城跡である。
昭和橋北詰から約150mほどに西へ入って行く細い路地があるので、それを入って行くと山に囲まれた田園地帯へ出る。
その左手(南側)の山が城跡。
形状
平山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:土塁、空堀
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2010/01/24
2010/02/10
歴史等
城の山城(しろのやまじょう)は「水沢村村誌」によると正安2年(1300)に坂田信濃守重次が築城し、永禄年間(1558~70)
に織田軍のために焼かれて滅んだとある。
『日本城郭大系10より』
現況・登城記・感想等
ネットによると標柱が建っているとのことであったが、城跡である山の南側に非常に多くのビニールハウスが建てられ、
今は無くなってしまったようだ。
「日本城郭大系10」に、「城は台地の先端部にあり、南は内部川に臨み、北・東側は内部川の支流が流れ、深い谷状地形を呈している。」
とあるように、山の周囲(北・南・東)は人工的に削られたような切り立った切岸のようになっており入って行くところが分からなかった。尤も、
あまりにも強烈な藪で、たとえ見付かっても、入って行く勇気はなかったが・・・(汗)
「西側は空堀で断ち切られている」とあるが、分からなかった。入って行かなかったのだから当然だよね(苦笑)
山裾には堀跡のような地形が見られたが、往時のものかどうかは分からない。
最初、城跡が特定できず、地元の人、数人に尋ねたが、案の定誰一人として城のことを知っている人はいなかった(苦笑) そりゃあそうだろう。
ごくマイナーな城址の上、これだけ何にも整備されていなかったら・・・(笑)
(2010/01/24訪れて)
ギャラリー
南側の内部川河畔から城址全景を
城跡の南麓にはビニールハウスがいっぱい立ち並び、気の弱い私としては、
こちら側から入って行くのは憚られた。
北側の切岸
「日本城郭大系10」に、「城は台地の先端部にあり、南は内部川に臨み、北・東側は内部川の支流が流れ、
深い谷状地形を呈している。」とあるように、山の周囲(北・南・東)は人工的に削られたような切り立った切岸になっている、
この北側に切岸は、明らかに人による加工が見られる。
東側から
段丘の東端からは南北両側が切り立った崖になっているのがよく分かる。右(北)
側には内部川の支流が流れている。左(南)側には堀跡のような地形がある。手前の軽自動車が停まったまま動かないので・・・
堀跡?
山裾には堀跡のような地形が見られたが、往時のもの?