主郭東部の小曲輪と周囲をめぐる土塁
伊賀流忍者の雄、伊賀上忍百地丹波の城
別名
百地砦、百地丹波屋敷
所在地
三重県伊賀市喰代(ほうじろ)字城谷、青雲寺や永保寺の東の丘陵
青雲寺:喰代975、永保寺:喰代1096
【行き方】
名阪国道(25号線)下柘植ICから県道146号線(途中から56号線)を約8kmほど南下し喰代地区へ入るとバス停がある。ここから南東約100mに青雲寺がある。寺の東にある丘陵が城跡。喰代地区に入ると城跡(砦跡)の案内板があるので分かると思う。
形状
平山城
現状・遺構等
現状:山林ほか
遺構等:曲輪、土塁、空堀、堀切、虎口、石碑、説明板、城址への案内板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2010/01/26
歴史等
百地丹波城(ももちたんばじょう)は、伊賀流忍者の雄・伊賀上忍百地丹波の城といわれている。百地家の祖は百地丹波泰光であると伝えられ、天文年間(1532~54)には既に北伊賀の喰代(ほうじろ)一帯を領していた。
戦国期には伊賀忍者の上忍3家の一つとして藤林長門守・服部半蔵保長に拮抗して、この地を拠点に勢力を張っていた(服部半蔵は「伊賀忍」と「足利家」の双方から離れ、三河の徳川家に仕えたため、以後は2家)。
天正9年(1581)の伊賀の乱の際に、丹波は自ら城を焼き放って、南伊賀の柏原城に立て籠もり、落城とともに行方不知になっている。
尚、丹波守は、喰代のほかに竜口にも城砦を構えたとの説もあるが、竜口からは百地新之丞・太郎左衛門が柏原城に入っている。また、「竜口百地家系図」によると、百地丹波守正西が竜口の城山で織田信雄と合戦し、敗れて一時高野山に入ったという。
これらのことから、喰代と竜口の百地丹波は同一人物ではなく、出生を同じくする同族で、どちらも丹波守を名乗ったと考えられる。
『「現地説明板」、「日本城郭大系10」ほか参照』
現況・登城記・感想等
「百地」といえば百地三太夫。さすがに伊賀に伊賀忍者の頭領だけあって、伊賀地方における戦国期の他の城(砦)と較べると、曲輪の数も多く大規模である。
主郭は、いわゆる掻揚げ式の城ではなく、丘陵を削って土塁化しいるそうで、広さ約70m×約40mあり、中央やや東に、長さと幅ともに約10mほどある土塁が突き出し、西側の大曲輪と東側の小曲輪に分けられている。
大曲輪周囲の土塁は高いところでも2mほどであるが、小曲輪周囲の土塁、特に北東の虎口両側から東にかけての土塁は4m程の高さがあり、傾斜も急で、幅も広い。恐らく物見台か何らかの建物が建てられていたのであろう。
また、小曲輪の東側には約40m×約35mの曲輪があり、その間は堀切で断ち切られている。
西側にある百地氏の菩提寺で、百地氏歴代の墓がある青雲寺も曲輪跡で、さらに東にある永保寺の辺りも出丸として機能していたと思われる。
また、城の南側には幅広い空堀があり池(丸形池)へと続き、防備を固めている。
他にも、出丸や武者隠し等々があり、伊賀地方屈指の要害堅固な中世城郭といえるだろう。
(2010/01/26登城して)
【余談】
永保寺下の空地に車を置いて城跡を廻ったが、戻ってみると道路の反対側に猿が50匹ほど群がっていた。こんなに多くの猿に出会ったのは、 備中松山城から大松山城へ向かった時以来だ。城跡で遭遇しなくてよかった~。
以前は、さほどでもなかったが、どうも最近、一人で山の中を廻る時に、やたらと熊やイノシシ、蛇等の出没を恐れるようになった。幸い、熊にもイノシシにも出会ったことはないが、猿も嫌だ~!
ギャラリー
縄張図(現地説明板より)
主郭の南虎口
主郭東部の小曲輪
南虎口を入ると主郭東部の小曲輪へ出る。主郭は、いわゆる掻揚げ式の城ではなく、丘陵を削って土塁化しいる。中央やや東に、長さと幅ともに約10mほどある土塁(写真左)が突き出し、西側の大曲輪と東側の小曲輪に分けられている。
主郭西部の大曲輪
大曲輪周囲の土塁は高いところでも2mほどである。
主郭に立つ城址碑と説明板
主郭の大曲輪と小曲輪の境目辺りに城址碑と縄張図付きの説明板が立っている。説明板は、北虎口の前にも、もう1基立っている。
主郭北東虎口(曲輪内から)
北東虎口両側から東(写真右)にかけての土塁は4m程の高さがあり、傾斜も急で、幅も広い。恐らく物見台か何らかの建物が建てられていたのであろう。
主郭北東虎口(曲輪外から)
中央奥は南虎口。この虎口手前は急崖になっている。
主郭東側の堀切
主郭の東側には約40m×約35mの曲輪があり、その間は堀切で断ち切られている。堀切の深さは両側共に2m以上あり、傾斜もかなり急だ。
空堀
城の南側には幅広い空堀があり池(丸形池)へと続き、防備を固めている。
丸形池
百地家累代の墓
城址の西にある青雲禅寺は、百地家の菩提寺で、寺の西側に百地家代々の墓がある。