主郭部の下に残る石垣
「四條畷の戦い」の地、戦国期になり三好長慶が居城
所在地
大阪府四條畷市南野、大東市北条
形状
山城(標高314m、比高264m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、石垣、土塁、土橋、堀切、竪堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2009/05/11
歴史等
飯盛山(いいもりやま)城は、南北朝時代の正平3年(1348)、四條畷の戦いで、「北朝方の高師直が6万の兵を率いて四條に着陣。
懸下野守が、その勢5千余騎をもって飯盛山に立て籠もる。」と「太平記」にあり、南北朝騒乱に際して築城されたのであろう。
ただ、この時代はまだ臨戦的陣城で、恒久的な城ではなかったと思われている。
次いで、畠山家の家臣木沢長政が居城とした。
木沢氏の後は、交野城の安見直政が河内守護代として入城するが、直政が主君畠山高政を紀伊国へ追放すると、永禄2年(1559)
三好長慶は高政を援けて、直政を大和に敗走させ、翌永禄3年(1560)長慶が入城し、城を大改修した。
長慶は、この飯盛山城と芥川城、高屋城の3城を中心にして河内一円を勢力圏としたが、永禄7年(1564)に長慶が病没すると、三好三人衆、
畠山義継、松永久秀の間で泥沼の戦いが展開された。
そして、天正4年(1576)、飯盛山城は織田信長に攻め落され、廃城となった。
『歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)参照』
現況・登城記・感想等
飯盛山城主郭へは、楠公寺から10分弱で登城できるが、私は飯盛山北東部の山麓からハイキングコースを歩いた。
楠公寺までは、整備された山道を20分ほどで到着する。途中水飲み場があり、
いつも多くの人がペットボトル持参で水を汲みに来ているようだった。
城跡は、最高所の高櫓郭を中心に南北に連郭式に築かれている。
高櫓郭には楠正行像が建てられており、北側一段下の曲輪には展望台が設置されている。
高櫓郭の北側には堀切が切られ、土橋が架かっている。
主郭部下の方に通る道脇には高さ1.5m、長さ約20mの石垣が残っている。
また、主郭から北方向へ少し離れた御体塚丸の東側の急崖部には石垣の一部が何箇所にも残っている。
それほど期待していなかったが、結構見どころの多い城跡だった。
ただ、高櫓郭や展望台から大阪方面の見晴らしは非常に良いが、当日は非常に濃い靄がかかっていたのが残念だった。
(2009/05/11登城して)
ギャラリー
滝谷楠水の場
飯盛山北東部の山麓からハイキングコースを歩いて登ると、途中に水飲み場(滝谷楠水の場)があり、
いつも多くの人がペットボトル持参で水を汲みに来ているようだった。
登山道
山麓からのハイキングコースはよく整備されている。この写真は、水飲み場(滝谷楠水の場)から登って行く道。
楠公寺
山麓から約20分(水飲み場から10分弱)で、「馬場」であったという平場へ出る。四条畷の戦いで、
斃れていった南朝方の楠正行(正成の子)率いる一軍の人々の冥福と菩提を弔うために「妙法寺」が開山された。昭和23年に「楠公寺」
と改名した。名付け親は、後に総理大臣になった池田勇人だという。
分岐点
楠公寺の前の道を行くと、分岐点へ出る。右の階段を登って行くと、主郭部の展望台や高櫓郭へと進む。左は、
千畳敷であったNHK鉄塔へ出る。
高櫓郭の北の曲輪(二の丸?)
上写真分岐の右階段を登ると、途中に腰曲輪を通って、この高櫓郭の北にある二の丸?に到着。
ここには展望台が建てられている。また、展望台下に説明板が設置されている。
高櫓郭
二の丸から高櫓郭へ登ると楠正行の像が建てられていた。楠正行は楠正成の長男で、
成人して南朝の後村上天王に仕え、正平2年(1348)山麓の四条畷で北朝方の高師直軍と戦い、敗れた。
四条畷神社には正行とその部下が祀られている。この像は昭和12年(1937)に建立されたが、太平洋戦争の最中の昭和18年(1943)
に台座を残し、上の銅像の部分を供出。戦後、昭和47年(1972)に再建された。
高櫓郭からの眺望
高櫓郭や展望台から大阪方面の見晴らしは良いが、残念ながら、すごい靄で、この通り(苦笑)!
堀切と土橋
高櫓郭の南には、堀切が切られ、土橋が良好に残っている。
主郭部下の石垣
主郭部のかなり下に通り道があるが、そこには高さ約1.5m、長さ約20mの石垣が残っている。また、
二の丸のすぐ東側下辺りにも石垣の一部が幾つか残っている。
御体塚北東部の石垣
御体塚の周囲には石垣の一部が、あちこちに残っている。そのいずれもかなり急崖のところに築かれている。
御体塚東側の石垣
御体塚南東部下の石垣