宍人城の大堀切
信長の命による明智光秀の丹波侵攻の際にいち早く織田方に与した小畠氏の城
読み方
ししうどじょう
所在地
南丹市園部町宍人平
【アクセス】
摩気小学校から南南西へ約500m。摩気小学校の東側道路から本梅川沿いに500m程南下すると右手に公民館があります。公民館の裏の山林が城跡で、公民館の脇が登城口です。車は公民館そばの少し広くなっている道路脇に停めました。
摩気小学校:南丹市園部町宍人市場111、電話0771-62-0420
所要時間
公民館から裏山の曲輪上まで3分、今回の見学時間は20分ほど
形状
平山城(比高20m)&館
現状・遺構等
【現状】 山林、杉林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、堀切、土橋、虎口
満足度
★★★☆☆
訪城日
2014/05/18
歴史等
宍人城の築城年代は定かでないが、出羽国清原武衡の後裔とされる小畠氏によって築かれたといわれる。
宍人に土着した小畠氏は、室町時代には丹波守護細川氏の被官となり、戦国時代まで居城したといわれる。
天正3年(1575)、小畠左馬助と左馬助の後見役小畠助大夫らは、織田信長の命で丹波へ侵攻した明智光秀にいち早く織田方に与し、丹波諸城の攻略戦に参加し、丹波の本領も確保したものと思われる。
元和5年(1619)、園部に入封した小出吉親は、園部城築城まで宍人城に逗留して、城地の選定と築城に当ったといわれる。
その功によって、小畠氏は園部城蓮池の東台地と家禄300石を与えられ、そこに移り住んだといわれる。
『日本城郭大系11他参照』
現況・登城記・感想等
公民館のすぐ裏の低い山が城跡です。
山上の曲輪は2段になっており、南側の低い段の曲輪の南側を深い堀切で断ち切っています。堀切の向こう(南)側の台地も城域(後で調べたら、そこが主郭のようです)かもしれませんが、とても行けそうになかったので断念しました。
また、城の西側下には、多くの土塁や堀が、複雑に入り組んだ館跡も残っています。
館跡の土塁と堀は明確に残り、それなりに見応えもあるのですが、縄張図がない上、複雑すぎて、一体全体、どうなっているのかよく分からないまま帰ってくるハメになりました(/。ヽ)。
縄張りも分かったので、また、いつかリベンジしたいと思います。
(2014/05/18登城して)
ギャラリー
宍人区公民館脇から宍人城跡を見上げる
宍人区公民館の裏山が宍人城跡です。比高20mほどの低い山ですが、切り立っています。
登城口
登城は、公民館の前を通り山中へ入って行きます。
登城道
登城道へ入ると、左側は城の切岸、右側は土塁の堀底道になります。
腰曲輪
城跡の山の上へは、背後を廻って行きますが、中腹まで行ったら、倒木などで通れなくなっていたので、斜面を直登しました。直登すると、曲輪西下の腰曲輪へ出ました。
曲輪
曲輪は2段になっています。そして、その向こうに堀切が見えます。
2段曲輪
南側の下段から撮ったものです、段差は1m強ほどです。
堀切
曲輪の南端は大堀切で断ち切られています。堀切の向こう側(写真右)の切岸は堀底から7~8mほどあります。あとで分かったのですが、その上が主郭のようです。
【平地部分の館跡】
城の西側には、多くの土塁や堀が、複雑に入り組んだ館跡も残っています。館跡には土塁と堀が明確に残り、それなりに見応えもあるのですが、縄張図がない上、複雑すぎて・・・。「日本城郭大系11」によると「ほぼ正方形に区切られた館が数個ある」とありますが、やみくもに見て廻ったので、一体全体、どうなっているのかよく分からないまま帰ってくるハメになりました(/。ヽ)。
(土塁)
平山部分から一旦下りて、西の方へ歩いて行くと、左手に土塁が見えてきました。
(館跡)
土塁の方へ行くと、それはまさしく周囲を土塁で囲んだ館跡でした。土塁は明確に残っています。
(折れ)
土塁には、一部折れも見られます。
(空堀)
館跡周辺には、至る所に空堀跡があるような感じでした。
(土橋)
館跡の東側の空堀には土橋が架かっています。
【泉?】
公民館脇の登城口から、西へ150mほど進んだ所に水が溜まっていました。水は比較的きれいで湧いているのかもしれません。「日本城郭大系11」によると、「本丸を東北東に約50m下った谷頭には杉の古木に囲まれた水神が祀られていて、その下に直径1.5mの泉がある。」とあります。「水神」が祀られているのは気が付きませんでしたが、場所的には近いような気もしますが、果たして・・・・・?